九州説信者ってとうとう前方後円墳体制も否定するようになったか
もう学問からかけ離れたラノベだと白杖してるようなもの
実際、一体なんのために「畿内以外の地域の前方後円墳」は作られたの?
被葬者は畿内の権力者なの?違うよね?
各地の副葬品の連続性からその地域の豪族・権力者であると考えるのが自然だよね?
これ、つまりは”勝手に”作ってない?
畿内発祥の権力者の象徴である祭礼古墳を、畿内の権力者に断りなく作ってね?
葬儀と言うのは大変な意味がある「自分がどんな権威で権力を継承するか」を天下に示すイベントとして重視されている
これは九州においても同様で九州は中期まで福岡を中心とした独自の墓制を広めて北部九州全域にその方式を採用させていた
ところが弥生後期後半にはこの秩序が崩壊して各地域で好き勝手な葬儀が行われるようになっていた
後期前半まで存在していた有力者がいなくなり無秩序な状態になっている事が伺える
この後に終末期になると九州ではそれまで一切行われて無かった「大きな墳墓を作って葬儀を行う」という方法が畿内式の葬儀が採用される
これに先立って生活土器も畿内式に塗り替わっており、九州が畿内の強力な影響下に入っている事が伺える
そしてこの方式は時代を追うごとに色濃く、より規格化された物になりその背景に政治的な支配力の波及を見る事は明らかと言える
古墳の波及はただの流行などではなく政治的背景を持った拡大だと解釈される
そもそも石塚山は卑弥呼の時代じゃねーからwwww
鋸歯文(きょしもん)はヤマト王権の工房で使われていた紋様だな。
二世紀末に征服されたと思われる磯城の唐子鍵遺跡の銅鐸にも鋸歯文が入っている。
神武東征伝説によると、神武は大和入りすると磯城の邑に降伏勧告を行ったが、首長の兄師木の一党が反抗したの彼らを殺した。兄師木の弟の弟師木とその一党は降伏して神武の軍に合流したとある。
磯城の邑は今の唐子鍵遺跡の事だろう。
考古学的にも唐子鍵の集団の一部は外来の銅鏡文化人に合流して、磐余の大福で銅鐸破壊と武器生産をしていた事がわかっている。
唐子鍵の生き残りの職人たちがヤマト王権の工房で働いていたのだろう。
鋸歯文は飛鳥時代になると寺院の瓦に刻まれるようになる。鋸歯文があればヤマト王権の工房で作られたものとみて良いだろう。
三角縁神獣鏡の鋸歯文を見ると、これは魏のものではなく国産鏡だろうと思われる。
邪馬台国は存在しなかったって何度言ったら分かってもらえるんですかねえ
銅鐸は邪馬台国ともヤマト王権とも無関係
魏書などのシナの書には「畿内にある大和国は、むかし九州にあったよ」と言っている。
それは魏書ではない
多分これでしょ
『新唐書(1060年完成)』には、以下の記載がある。
日本は、古の倭の奴国なり。
その王の姓は阿毎(あめ)氏、自ら言う、
初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、
彦瀲(ひこなぎさ)に至る迄およそ32世、
皆、尊(みこと)をもって号となし、筑紫城(ちくしじょう)に居す。
彦瀲の子、神武立ち、改めて天皇を以って号となし、治を大和州(やまとしゅう)に移す。
1060年ともなれば、日本の国家体制は確立しているわけで、
中国の歴史家は日本から来た歴史書を読んで書いたんじゃないかな?
ネットで調べて、そのままレポートに書くなと、何度言えばわかるんだw
7世紀から編纂が始まり8世紀に完成した日本書紀、古事記
完成した時にそれより古い『日本国内の』歴史書は禁書にされて焚書された。
でも中国にはもっと古い記録が焚書されずに残っていた可能性がある。
日本書紀では消された神武天皇以前の32代が記載されてるということは
禁書にされて焚書されて消された7世紀以前の日本に関する記録が
中国には残っていてそれを参考に書かれた可能性がある。
つか、日本書紀については、そもそもこれは天武天皇が編纂させたもので、
天武天皇ってのは、壬申の乱に勝って、天皇位につくわけだが、
これは正統でない側の皇子が正統な側の皇子を倒した、というほぼ日本史上唯一の例で。
そうなると、「正統な歴史」ってのがどの程度そこで斟酌されているかってのはいろいろと
邪推ができるわけでw
元ネタが日本書紀だから特に言及するほどのことでも無い
九州の邪馬台国連合で戦乱に嫌気がさした一派が東に流れて行って大和政権の元になったのじゃよ
って向かいのおばあちゃんが言ってた
そもそも邪馬台国って中国側の資料でしかないし
使節派遣して金印貰っただけで
日本をどれだけ統治してたかなんてわからんし
単に九州の一国だった説で終わりだろ
どれだけ統治してたかってのは凡そわかってる
そもそも邪馬台国が畿内にあったという証拠がこのスレでは示されてないな
邪馬台国が九州にあったという証拠やデータは山ほど出たが。
妄想とファンタジーなのはむしろ畿内説の方では?
あ、NHK謹製のゴッドハンド地図は要らないから
そもそも邪馬台国連合は30カ国にすぎず、首長級の弥生式墳丘墓から判断するに九州だけで30カ国程度はあったと言われている
まあそもそも奈良には首長級の弥生式墳丘墓は存在しないわけだが
後漢書にも倭は100国とあり、畿内東海から九州まで支配した邪馬台国であれば30国では到底収まらない
その解釈で良いよ
ただし、奈良の軍事的バックは尾張と伊勢であり、
奈良自体は弱体だったのだ
なぜ奈良が尾張と伊勢を従えられたか、これは本当に謎だね
謎でもなんでもないよ
その頃の奈良は稲作可能な湿地が日本一多くて大人口が養えた
奈良盆地は元々湖
それは史実の誤解だよ
古墳時代の稲作は谷戸で行われており、平野や盆地は穀倉地帯ではない
流れる水があり、最小限の水路で調整可能だから、水田に出来たのだ
奴隷を使って大規模な土木工事を行い、平野部にため池が作られたのは平安時代以降だよ
登呂遺跡思いっきり平野なのに
何で退化してるんだよw
日本最古の溜池は7世紀飛鳥時代に作られた大阪の狭山池
今も地元の人に守られてる
平城京~難波宮の通勤ルートだな
大仙古墳もだけど農業や土木の最先端テクノロジーがあのへんにあったのは確か
九州はそんな稲作できる土地あったか?稲作の遺構しょぼくね?とか思うんだよな
古墳時代の前なw後漢とか魏とか晋とか
古事記によれば新羅王アマノヒボコが丹後に渡来し、宮津市にある籠神社に今もアマノヒボコが持ってきたと言われる鏡が存在するが、このような高い技術を持った渡来人が空白地だった奈良盆地に住み着き、力をつけ支配を広げたと解釈するのが妥当では
海部氏系図によれば鏡を持ってきたのは天火明命で、その天火明は饒速日とも言われる
その饒速日が神武天皇よりさきに大和入りしていたわけで、アマノヒボコ饒速日を同一視するとその解釈も妥当に思える
とにかく4世紀以降急激に文化が変化しすぎるのは渡来人によるものと解釈するしか無いだろう
欧州ってのはビザンティンも含むのか?
畿内説の根拠は16世紀の逆さま地図と言うお笑いhttps://i.imgur.com/1EkUGqp.jpeg
そしてさらにその地図を選んだ根拠が、都合の悪い部分は記載ぜず都合の良い一部だけ切り取って貼り付けた地図なんだよな
>この地図の赤枠部分が日本列島なのだが、畿内が無い
>
>本来の地図
>https://i.imgur.com/ajjvzLa.jpeg
記紀の熊襲国討伐には一切触れない九州人 ケンチャナヨー
それ卑弥呼の時代よりもずーーーと後の時代のお話ね
古墳についてはよく卑弥呼の墓などと言われる祇園山古墳に付いても
「畿内の影響のもとでもちこまれた九州でもかなり早い段階の畿内式古墳」として判断されている
その前段階に墳丘を作る伝統もなく突然畿内のような墳墓が現れている事からも九州の墓制が根本から上書きされている証拠と言える
出てくる土器も畿内系の土器が多く祇園山が九州の外から持ち込まれた文化の産物である事が明白と言える
台には下という意味があって下部の意味もある悪字。
邪馬台は邪→悪字 馬→動物文字は悪字 台→悪字
史書で使われてるのは台ではなく臺な
「うてな」であり明確に良い意味だよ
卑弥呼の弥もあまねく、永くの意味の良字な
「邪」と「卑」は?
日本列島は弥生時代に朝鮮の人に侵略されたってこと?
>日本列島は弥生時代に
朝鮮半島から・・は特に考古学的な痕跡はない。少しは居た程度。
米作文化は上海付近から直接来ている。その途中で数日間程度は朝鮮半島沿岸沿いに航海したかもしれない (朝鮮半島の中央部とそれ以北で米作が定着した考古学的証拠はゼロ)
弥生末期の朝鮮半島最南端部は、北九州と一体化した倭人の領域だったのは考古学的に確実。
一字一句厳密な史書で
イトを伊都と記してるのに「邪馬台」ではトを台と記すはずがないんだけど
現代のトの音が古代の日本語に複数あったかの検証はされてるの?
九州に大きな国など無かったよ
だから、ジンムが東を攻めた時、補給が無かった
280年の日本で前線に補給を送れるのは、尾張と伊勢をもつ大和だけだったよ
穀倉地帯の有無が、長距離派兵のキモなのだが、
古墳時代の稲作は丘陵地の谷戸で行われ、平野は不毛の地だったよ
邪馬台国もヤマト王権も銅鏡文化人。
畿内の先住民である銅鐸文化を滅ぼした後に、新しく生まれた国ということになる。
よって邪馬台国=ヤマト王権と推定するのが妥当。
文春砲https://i.imgur.com/TxfHTGE.jpeg
紀元前から日本各地で五銖銭や銅鏡が発見されてるから中国王朝とは倭国が国家として交易してたことは確実
卑弥呼についての記述が当時の日本の統治状況から見るとちょっと変
朝廷側が朝貢する必要性に迫られて足利義満方式で女王卑弥呼を国王として朝貢したんだろうとは思う
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