瀬戸内海なんか群雄割拠で、いつも大乱じゃないか
船が安定して通れるようになったのは、ヤマトが九州まで征服した後
神武東遷というイベントも、船三隻 海兵隊150名という規模じゃ
戦争の痕跡を発掘するのは難しい
穀倉地帯という事で言えば古代に穀倉地帯として成立しうるのは福井ぐらいだという
邪馬台国北陸説というのを唱えている人がいたな
あと、関東の多摩な
時代はちょっと違うが、古墳時代の谷戸による穀倉地帯だよ
これがあるから、関東は大和朝廷から半独立でいられた
邪馬台国は九州の地方豪族で
それら豪族を統括してるのが畿内の大和王権だろ
当時の鉄の武器の量からして畿内が九州支配できるわけがない
そもそも大和王朝が九州進出できたのは5世紀6世紀から
鉄の鏃で支配できるわけ無いだろ
現実を見ろ
人数、リソースがなければ勝てる訳がない
鉄保有量も食糧生産量も人口も圧倒的に九州の方が多かったわけだが?
邪馬台国は、宮崎県西都市の西都原(さいとばる)で決まり。
.
畿内で倭国大乱がなかった時点で畿内説は破綻してる
邪馬台国は
中国史の三国志で、魏と同盟した、
日本のどっかの女王国って話だが?
日本の歴史で、大和朝廷は
その頃、奈良に都を造ってた
のではないかな?
歴史の話としては、
全然、共有するものは無い。
記紀をこの頃の歴史の話とするのには
疑義があるが?
近年の考古学成果としては、
邪馬台国は九州の可能性が高い。
そもそもなんで畿内説なんて根拠の無い奇怪な説が吹聴されてるんだろう?
後継を名乗る無関係政権だろ
代替わりや人が変われば変わるよね
鉄の武器を持っていた九州が畿内を征服した邪馬台国=ヤマト王権が成立した。
ヤマト王権の女王は魏に朝貢して親魏倭王になった。
この当たり前を否定するのが九州説の古史古伝信奉者の歴史修正主義者たる由縁。
勘違いしてる人多いけど九州はこの時代全く鏡が出土しない
九州の鏡は古い時代の破鏡や鏡片、もしくは至位三公鏡みたいな民間の鏡だけ
この後の鏡は4世紀以降の古墳出土鏡
そもそも出土物は併出する新しいもので判断するので古墳出土鏡は邪馬台国時代の出土物と判断しない
弥生時代後期のだいたい1世紀くらいから実に200年以上鏡が出てこない事になる
九州は「当時の日本で最も鏡の出ない場所」と言える
だいたいそんなに鏡が本当に出てるなら誰も苦労しない
普通に出てるけど何言ってんの?
頭大丈夫?
畿内説派の自問自答かよw
>>704
神武東遷でクーデターが成功し、新興国として国家体制を作っていた大和にとっては、
やっつけ仕事で朝貢を急ぐ必要があったと思うよ
神話のでっち上げも、纒向で公文書管理の儀式をテストしたのも、新興国が外交関係の樹立を急いだと考えれば納得がいく
ただし、このシナリオだと神武東遷は301年じゃなく、魏志倭人伝の280年より前だね
301年説は干支と合うそうなので、難しいなぁ・・・
今よりもっと漢字の読みの発音は近かったと思う
「大和」なんて偉そうに。お前らみたいな辺境の蛮族は邪馬台でええやろ
って事じゃないの?
台は良字なんだけど
・邪馬台・卑弥呼は悪字
・短里がどうのこうの
・隋唐時代の記述を出す
↑正直この辺りは素人丸出しなんでほんと勘弁して欲しい
あと鉄についていも勘違いしてる
弥生時代の鉄は「石器の代替品」程度の物しかない
鉄の武器で征服した等という考えは昭和の最初の頃の発想でこの時代の鉄器の資料が出そろった現在、当時の鉄器にそんな威力はないことが明らかになっている
鉄器の量は国力の差を意味しない
いやいやいやいや卑弥呼の時代には九州では鉄の武器が主力になっとるわ
畿内笑は青銅がやっと
それがお前の勘違い
だから低能なんだよ
日本書紀に『魏志倭人伝』の話がちゃんと書かれてる
書いてない
日本書紀 巻第九 氣長足姬尊 神功皇后
神功皇后 摂政卅九年(西暦239年)
是年也太歲己未
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」
神功皇后 摂政卌年(西暦240年)
魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
神功皇后 摂政卌三年(西暦266年)
魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
それ120年ズレてるから
まあわざとズラして解釈できるよう書いてんだよな記紀の著者は
面白いよね
問題はそこでは無い
藤原京(奈良県橿原市)を造成し、日本書紀の編纂を命じたとき、天皇家は、
日本に邪馬台国があったことも、卑弥呼がいたことも知っていた
編纂するときに大陸側の人を招聘してアドバイス受けたから
魏志倭人伝との整合性についてはチェックされただろう
つまり、大陸から招聘した学者は
邪馬台国や卑弥呼がいたのは、天皇家が朝鮮に大量出兵したとき
と比定していたんだねぇ
魏志倭人伝にはそんなことは書いてないぞ
問題はそこでは無い
藤原京(奈良県橿原市)を造成し、日本書紀の編纂を命じたとき、天皇家は
日本に邪馬台国があったことも、卑弥呼がいたことも知っていた
そしてあえて日本書紀に「それは神功皇后のときである」と記した
しかし倭国戦乱の後に複数の国から共立されて女王になったとは書けなかったし
魏から金印貰ったとも書けなかった
まぁ金印貰ったと書いたら
じゃあその金印は今どこにあるの?
と突っ込まれて『ぐぬぬ』となってしまうからかもしれないがw
問題はそこじゃねーんだな
>>948
つまり、
藤原京(奈良県橿原市)を造成し、日本書紀の編纂を命じたとき、天皇家は、邪馬台国のことも卑弥呼のことも知っていた
そりゃそうでしょ、何を当たり前のことを
その上で「神功皇后のことこっちじゃ伝わってないけど卑弥呼っぽいよ?」
としちゃってるんだなあwわざわざ120年ズラしてw
なんで「そりゃそう」なの?
当時の畿内政権が三国志知らないわけないじゃん、言うまでもない当たり前の事だよ
何度もいうが畿内王朝が九州進出できたのは5世紀6世紀以降
「邪」だの「卑」だのといった蔑む漢字を当ててる文献を信じるのがどうかしてるよ
そんな国も人物も日本には存在しなかった
中国はそれがデフォだから今更だろう
それだと鮮卑匈奴とかもいなくなってしまう
倭国大乱というそれっぽいのはきぎには記載ある??
全く無い
2世紀の畿内の村には濠がないし武器もほぼない
倭国大乱の舞台とは到底いえない
当時の九州の考古学的状況を見れば明らかだが、九州は鏡も出ないし、絹も最盛期から激減した1遺跡からのみでそれも麻布レベルの粗雑な物になっている
鉄器も石器の代替レベル物でとても時代を変える様なものではない
また中期まで存在していた九州北部をまとめていた勢力的な物も消滅している
なによりもこの時期の九州は畿内の影響に生活から祭祀まで上書きされ元々の文化が急速に消滅していく様子が明らかとなっている
九州説とやらが全く支持されないのは考古学的に九州にまともな勢力と呼べるものも、物証も存在しないからに他ならない
大体そんな素人がすぐわかる程の物が大量に出てるなら論争になんてならないだろう
ハッキリ言って九州説など考古学を完全に無視した妄想でしか成りたちようがない
吉野ヶ里の日吉神社の下から巫女の墓が発見されてたろ
絹を纏いホラ貝の腕輪をして前漢鏡を抱いた巫女の遺骨が出た
畿内には卑弥呼以前に巫女が居た痕跡すら無い
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