学界で「畿内説」が優勢になった根拠である纏向遺跡の年代ですが…
用いられている「炭素14年代測定法」「年輪年代測定法」でいずれも国際基準より100年程古い算出結果が出ており、
はっきり言って悪質な捏造が行われている可能性が高いです。
その証拠に、607年創建で600年代後半に再建された法隆寺は
この測定法では500年代後半と判定されています。
【纏向の古墳群の年代は旧来通り卑弥呼より100年程後】だと考えるべきです。
こういった行為を野放しにしている学界は非常に危うい状態と言えます。
神功皇后=台与で実は邪馬台国を滅ぼしたのが台与
神功皇后をはじめ天皇家にはトヨ(豊)の系譜が入り込んでいる
知らんけど!
…(´・ω・`)
実はなかったのじゃよ
近年、大きな注目を集めているのが金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてつきょう)です。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は1933(昭和8)年に大分県日田(ひた)市のダンワラ古墳で出土した鉄鏡で、金銀玉の装飾が施されています。
金や銀をはめ込んだ鉄鏡は権威の象徴であることから、卑弥呼が魏の皇帝から贈られた鏡ではないかという見解も出されています。
この説はあまり支持されませんでしたが、2019(令和元)年、中国・河南省の曹操(そうそう)の墓から鉄鏡が出土し、それが金銀錯嵌珠龍文鉄鏡によく似ていると発表されたのです。
曹操は魏の武将。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が魏の皇帝から贈られた鏡の1枚であれば、九州説の裏づけとはならないまでも、信ぴょう性は増します。
中国での発見は邪馬台国論争に一石を投じることになっています。
もし邪馬台国がヤマト王権になったとすると仮定すると、卑弥呼には子供がいないので皇統が絶えていると解釈されるという大問題になってしまうのだが、、
「やまと」「やまたい」て発音単語自体がきっと古代日本で「国」「軍事行動可能レベルな組織的なデカい集落」て意味だったんじゃねーのかな、て割とマジで思う。
んで一番デカくなって全国統一した「やまたい」がそのまま統一王権になったって考えれば普通に辻褄が合う
中華思想の国が大和と書くわけないだろ!
邪悪な馬の字を当ててヤマトの国を
邪馬台国って書いたんだよ!
その国をおさめたのが卑弥呼だぞ?
中国から見たらヤマトの卑しいミコだよ!
皇子と書いてミコと読むよな? 天皇のことだよ!
卑弥呼に最も近い人の墓は平原古墳です。
くだらない権威主義と学閥争いを一旦置いて冷静に考えれば大分県でほぼ間違いない。
邪馬台国は海賊の国
大和に滅ぼされて吸収された
ワンピースはその話
中二病を拗らせた無知蒙昧なキッズがボクの中の歴史とボクの中の解釈を語る様はマジで滑稽だよ
大和王権は畿内に実在する史実だが
邪馬台国はファンタジーに過ぎない
それと「邪馬」などと言う、中国人が日本を卑下して付けた当て字を使い続けるのはいい加減に止めろや
八尺瓊勾玉なんだよね結局
鏡や剣は渡来品なんで
魏志倭人伝を残した魏という国は朝鮮半島の西部まである、東西を縦に半分
そして朝鮮半島の東部も倭人の国
倭寇(海賊、賊)もだいたい地理的に同じ
>前期倭寇は主に北部九州を本拠とした日本人で一部が高麗人であり、主として朝鮮沿岸を活動の舞台として中国沿岸(登州、膠州など黄海沿岸)にも及んだが、李氏朝鮮の対馬を中心とする統制貿易、日明勘合貿易の発展とともに消滅した[1]。高麗王朝の滅亡を早めた一因ともいわれる[1]。
邪馬台国九州説だと仮定して九州のどこの県にあったんだ?
銅鐸文化人は九州からやってきた征服王によって西暦170〜180年に消滅している。
伊勢遺跡は纏向文化人と文化も宗教も違っていて、邪馬台国滋賀説はなりたたない。
纏向学の論文を書いている人の中に、この説を唱えている人がいるがいるから正面切って否定するのは気まずいのだが、匿名掲示板だからまぁいいだろう。
どうもジャップの選民思想が気に障るよな。
邪馬台国オレオレ詐欺の畿内説である
大和も邪馬台も当て字でしょ
日本語で「やまと」ってどんな意味か考えてみればわかる
矢と的だ
つまり
どういうことだ?
ヤマトは(聖なる)山の麓の意味。
纏向のことだな。
西日本一の大河である筑後川周辺は邪馬台国の候補地だなhttps://i.imgur.com/Qay0rc8.jpeg
体裁のとれたバカを担ぎ上げておけば大衆はそれで納得するからな
九州説と畿内説の間を取って邪馬台国は岡山にあったということで決着にしようじゃないか
温羅/岸/アベ/モリカケ/橋本龍太郎スパイ朝鮮人類の根拠地岡山がヤマトの国だったわけないだろ
温羅/岸/アベ/モリカケ/橋本龍太郎スパイ朝鮮人類の根拠地(潜伏地)岡山がヤマトの国だったわけないだろ
温羅/岸/アベ/モリカケ/カン/橋本龍太郎スパイ朝鮮人(似非保守:リアル左翼)類の根拠地(潜伏地)岡山がヤマトの国だったわけないだろ
温羅/岸/アベ/カケ/鳩山/カン/橋本スパイ朝鮮人(似非保守:リアル左翼)類の根拠地(潜伏地)岡山がヤマトの国だったわけないだろ
畿内説派が桃の種が出たから畿内だとか無茶苦茶なこと言ってたから、そういう意味では岡山はありえるねw
まあ実際は九州のどっかなんだろうけど
中国でも桃は神聖な食べ物で、神聖な儀式に使われるよ。
なんで九州からは神聖な食べ物が出てこないの?
九州では神聖な養蚕の痕跡が出ている
畿内は?
そもそもモモ信仰を邪馬台国の卑弥呼がやってたなんてどこにも書いてないし
岡山などでも大量の桃の種は見つかってるんですが
はいでは邪馬台国は岡山ということですね畿内説派さん!
岡山からはいっぱい桃の種出てますねぇ!
当時の魏が村落レベルの地方都市を国として扱うわけないだろ
字で言うと大和はダイワじゃん
邪馬台国から少しは引き継いでないとヤマトとかいう読み方の意味が分からなさすぎる
どう考えても大和と書いてヤマトとは読まないなあ
日本も当て字を使ったから都合が悪かったからどこかの史書でコリエイトされたと思う
中華人朝鮮人(の素)が日本人を倭(ワ)と呼んだ→日本(やまと)人自身が倭に替えて和を当てた
→和(やまと)に美称「大」を付けた→大和(やまと)[ただし、本当は「おおやまと」]
倭→大倭→大和だよ
ヤマトなる語の語源は未詳(山門説や山処説は上代特殊仮名遣いから見て成り立たない)だが、或る時期に於ける列島西半古代王権の自称ではあったろう。
彼等が自前の史書等を仕立てるに当たって漢土の正史の記述を参照した時、
列島西半を表す「倭」なる漢字を見出してこれを以てヤマトに宛てた。
ところがこの漢字はかなり悪い意味の卑字であった為にこれを嫌って(列島音では同音となる)「和」なる佳字に書き替えた。
更に美称の接頭辞である「大」を冠して「大和」=ヤマトなる無理矢理な読みが完成した。
従って当時の古代王権が漢籍に謂う「倭」は己のことである、或いは少なくとも有意の関連があると認識していたことは否定し得ないように思われる。
山門ではあり得ない。
>>214の一行目を参照されたい。
対大陸的にヤマトを名乗った方が都合良かったんだろうね
外交策というか
大和と書いてダイワと呼ぶのはCMの影響だろ
北陸でいちばん大きな百貨店だぞダイワ!
寺澤薫の試算する奈良盆地の戸数は7000戸
「王都を擁する「磯城下」と「磯城上」の二つの大共同体をあわせてもせいぜい四〇〇〇人。ならばヤマト国(邪馬台国)全体でも最大に見積もって一万五〇〇〇人ほどだろう。奈良盆地全体なら三万五〇〇〇人、戸数にして七〇〇〇戸ほどだ。」
—『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』寺沢薫著
4000人は少ないな、吉野ヶ里だけで5000人だから。
魏から親魏大月氏王の称号をもらった者が、インド・クシャン朝のヴァースデーヴァであることを考えると、
親魏倭王の称号をもらった卑弥呼が、九州地方の一豪族と考えるのは、ちょっと無理じゃないかね。
少なくとも西日本一帯を支配する程度の勢力があったものと考える方が自然だと思うよ。
少なくとも魏は邪馬台国を、インド・クシャン朝と同程度の大きさの国と認識していただろうから、
邪馬台国を日本全国と考えても、小さいくらいだからな(笑)
親魏倭王の金印は魏との外交が継続しているから、卑弥呼から台与に渡ったのはほぼ確定やろな
その後どうなったか?
延喜式によるとウカノミタマの別名はトヨウケ
台与はウカノミタマと総称される勢力の姫だったのかもな
信太山の葛の葉伝説
配下の者がした行いのお詫びにウカノミタマが黄金の箱と水晶玉を授ける話
信太山の和泉黄金塚古墳からは葛の葉伝説の通り日本最大の水晶玉が見つかっている
和泉黄金塚古墳からは大量のヒスイなどの勾玉も見つかっている
4世紀後半親魏倭王の金印は勾玉の勢力に譲られた可能性があるね
勾玉は卑弥呼より前の時代畿内で流行っていた
唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡など畿内のたくさんの遺跡からヒスイの勾玉が見つかっているが弥生時代末期でみな営みを終える
弥生時代末期に何処かに避難したのか何なのか
仁徳天皇陵古墳の時代、考古学的に再び勾玉ブームが訪れる
魏と国交があった倭国のエリアhttps://i.imgur.com/dF6bcdd.jpeg
神武が宮崎の日向国出身って話はもう諦めたんか?
神武伝説は史実の直截な反映などと云う底の浅いものではない。
二世紀の列島西半の考古学的事実と不気味な整合を示す説話がある一方、
下手をすると万年単位の昔、列島人の根源の記憶かと疑われる要素さえある。
思うにそれは、物理的史実を一旦微分してから「ヤマト王権の世界観」という別の座標系に移し替えて積分し直した数式ではなかろうか。
元の座標系が喪われてしまった今となっては記紀の記述から史実を再現することは不可能だろう。
それほど神武伝説の謎は深い。
和泉黄金塚古墳からは「景初三年」在銘の画文帯四神四獣鏡が見つかっているから邪馬台国の勢力と何らかの縁があったのは間違いないだろうね
YOU TALKIN’ TO ME ?
YOU TALKIN’ TO ME ?
嘘か真か
答えはそれだけで良い
邪馬台国は北部九州で大陸外交をやってた国
漢の倭の奴国王の金印が北部九州から出てるように大陸への玄関口であることを利用してあの辺りが外交をしていた
半島南部もその勢力下においていたから、外交に血道を上げていた
倭の内部事情は大陸に伝わりにくいので、大和朝廷が挙げた成果を自分のものとして利用していた
一方、大和朝廷は倭の平定に力を注いでいたので、邪馬台国の当時は外交はしていなかった
そのうち、大和朝廷の軍門に降った邪馬台国は地方政権として命脈をつないだのかすっかり吸収されたのか
磐井の乱みたいな反動もあったと
神武は博多湾沿岸出身
いいな?
二度と逆らうなよ
以上
魏から親魏大月氏王の称号をもらった者が、インド・クシャン朝のヴァースデーヴァ。
魏から親魏倭王の称号をもらった者が、邪馬台国の卑弥呼。
自分はやっぱりこの対比が気になる。中国の魏は邪馬台国を、インドと同程度の大きさの国と
認識していた可能性が高いから、邪馬台国を九州の一地方国と考えるのは、やっぱり無理だと思う。
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