仮に卑弥呼が魏のバックがあることを示すために銅鏡を配ったというなら
むしろ「銅鏡のある所は邪馬台国ではなく、銅鏡の配布先」ということになると思う
畿内説の良く分からない所は
「畿内から他地方に銅鏡を配った」しか考えず
「九州から各地方に銅鏡を配った」可能性を考えない所だ
古墳の中に埋葬されてんのに、なんで配布先?になるんだよ
無茶振りすぎないか?
あくまで可能性であり説だけど反論するなら反証が必要
現代人が葬式に花輪贈り合うように
鏡を配ってた
埋葬される鏡の数やグレードで埋葬される人の権力や財力を誇示する
お前の中では銅鏡の配布が前提なんだな
理解できないからもういいわ
配布は普通の発想だよ
偽銘年や当時の大陸・邪馬台国の状況を考えれば極めて妥当性が高い
むしろ古墳の中にあると、どうして配布先にならないのかの方が分からん?
畿内説でも「魏から銅鏡を配布された卑弥呼の墓に銅鏡がある」
ってことになるんじゃないの?
畿内説でも銅鏡配布先の古墳に銅鏡があるやないですか
仮説を唱えるのは勝手、だがそれは証拠によって裏付けられなければただの独りよがり
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう
漢代で定まったことが後の世の多くのスタンダードである
中国側「貴国はもしかして邪馬台国では?」『おまえの国、女王国だったりしない?それだと聞いたことがある。女王国なんてあるんだなーって』
日本側「え、ええまあ、そのようなもので」
中国側「ほお、よく来た。では貴国の頭を王侯に列することとする。邪馬台国王、永く我が天子を奉戴せよ」
日本側「え、ええまあ、そのように」
後に離反する集団の名と、集団各自の上相手の受け答えの文化とが、
こうして定まっていくのであった
ユルしユルし
邪馬台国が大和(日本)の原型なら魏から金印もらったって事実(歴史)は記紀に残すはずだよな
神功皇后が卑弥呼であるかのように匂わせはするけど
その神功皇后は(実在するなら)4世紀後半の人物
多分邪馬台国の時代には大和朝廷は存在しないか
したとしても九州を支配下に置いてなかったんだろうね。
個人的には大和朝廷は早くても4世紀成立だと思う。
やっぱり全国規模のヤマト王権の成立はワカタケルの雄略あたりかねえ
熊襲平定より三韓征伐を先にやれというお告げを無視した仲哀天皇が急死して、倭の五王の仁徳だか履中が自分を全国平定の大将軍にしてくれと頼んでいるからこの二人にはさまれている応神天皇の頃ほぼ平定したと言える。
バカチョン思考
弥生人は韓国系だ
芸能人は現役の人間でも過去の罪は数年で許されていい
日本人の罪は100年後の子孫だろうが許されない
韓国は日本と戦争した
日韓スワップは日本に得がある
韓国文化は日本文化より優れていると思っている
中国が台湾侵攻したら戦争してもいい米韓同盟の韓国軍の方が自衛隊よりも戦争に参加させられることがわかっていない
卑弥呼とは巫女を指す職業名であり一人ではない
だとすると後を継いだトヨも卑弥呼と呼ばれてなければならない
伝聞をまとめたのだからヤマト国を当て字して邪馬台国と記したんだろ
そもそもヤマトと発音されていたかどうかについても議論はある。
仮にヤマトだったとしても九州にもヤマトと発音する地名があるから
その発音が邪馬台国畿内説の根拠にはなり得ない
地理を正確に描写してる隋書倭国伝で奈良が魏志倭人伝にかいてる邪馬台国って書いてるじゃん。
いくらへりつくこねてもこれが事実。
遣隋使の時代には奈良に大和朝廷があった
ということと
邪馬台国がどこにあったかは別の問題ですよ
何せ300年以上離れてるからね。
当時の日本語の発音に近い当時の中国語の発音の文字に当てはめたので本当の発音というのはわからない
ヤマタイというのは当時の文字を今の発音で呼んでるだけだからな
全く別の言葉という可能性もある
邪馬台国論争に隋書の記述引くとかド三流もいいとこ
出直せ
九州からどっこいレベルの銅鏡が出土しないことには配布もクソも反証にならんのだが
証拠が無きゃただの仮説でからね
仮に魏がバックについてることを示すために卑弥呼が銅鏡を配ったとしたら
「卑弥呼の手元に銅鏡は残らない」もあり得るのでは?
織田家領地が700万石あっても信長個人の直轄領は100万石程度だったように
部下に分け前を与えると、主君の取り分はかなり少なくなることはあり得る
もし九州卑弥呼が自分の手元に残らないほど銅鏡を配布したら
九州の方が銅鏡が少ないこともあり得るだろう
そもそも卑弥呼の時代に作られた鏡はほとんどのが九州ですよw
正直なんで邪馬台国が畿内にあるなんて思えるのか不思議なレベルで九州が圧倒的
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、?鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・?鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-16L.gif
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku366.htm
仮に魏がバックについてることを示すために卑弥呼が銅鏡を配ったとしたら
配布先の権力者は「俺は魏由来の凄い銅鏡を持ってるんだぞ!」と
「自分の墓に入れて欲しい」と考えると思う
>1の記事の銅鏡もそういうことではないか?
卑弥呼からトヨに引き継がれたということは邪馬台国はまだ続いてるのに国としての権威の象徴である鏡を埋葬するか?
支配者が変われば鏡を失って国としての権威の後ろ楯がなくなるってそんな馬鹿なことしないだろ
ここが台与の墓所か別人の墓所か、また銅鏡が魏から来たものか分からんが、
仮に魏から贈られたものだとしたら、3世紀後半に魏は滅んで晋になってるから、
銅鏡は晋の後ろ盾がある証拠にはならんし、もう前の王朝の銅鏡持っててもしょうがないよね、
たまたまうちの支配者死んだから一緒に埋めちゃえ、って話にはなりうるかもよw
出雲王国には、
伊邪那美の出身地であり
伊邪那美の死後に伊邪那岐神が訪れて殺されそうになった、伊邪那美の墓所がある闇見国(島根県安来市から鳥取県米子市)を治める東の向家(富家)と、
天照大神・月読・建速須佐之男命の母の出身地であり
新羅から帰国した建速須佐之男命が宮殿を建てた根之堅洲国(島根県雲南市)を治める西の神門臣(かんどのおみ)家の
二つの王家があり、主王「大穴持(オオナモチ)」、副王「少名彦(スクナビコ)」を交代制でやっていた
熊野の高天原のアマテラスが、出雲に国譲りを迫ったときは
主王「大穴持(オオナモチ)」は
天照大神・月読・建速須佐之男命の母の出身地の根之堅洲国(島根県雲南市)を治める西出雲王家の神門臣家の
新羅から帰ってきた建速須佐之男命の娘と結婚した八千矛(大国主)
副王「少名彦(スクナビコ)」は
伊邪那美の出身地であり、伊邪那美の墓所がある闇見国(島根県安来市から鳥取県米子市)を治める東出雲王家の向家の八重波津身(事代主命)
天照大神から国譲りを迫られて、出雲主王の西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)は
伊邪那美の出身地であり、伊邪那美の墓所がある闇見国を治める副王の、東出雲王家の向家(富家)の八重波津身(事代主)が承諾するなら譲りましょうと答える
副王である、八重波津身(事代主)は国譲りに同意するが、八重波津身(事代主)の弟の建御名方は猛反対
東出雲に密かに派遣されていた、伊邪那岐の正室である伊邪那美の嫡流である大綿津見神(豊玉彦)の息子の宇都志日金拆命と共に徹底抗戦する
しかし結局負けて捕らえられてしまい、建御名方は大綿津見神(豊玉彦)の息子の宇都志日金拆命と一緒に長野の諏訪に幽閉されて
代々男王だった出雲王国は、畿内と共に女王アマテラスを共立して
大穴持命…第8代出雲主王の西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)「大国主」は
私が国作りをして治めている国(葦原中国)は、
皇御孫命(アマテラスの子孫)が平和に世をお治めになるようお任せ申し上げると決意する
で、天照大神から国譲りを迫られて
天照大神から国譲りを迫られて、出雲主王の西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)は
伊邪那美の出身地であり、伊邪那美の墓所がある闇見国を治める副王の、東出雲王家の向家(富家)の八重波津身(事代主)が承諾するなら譲りましょうと答える
副王である、八重波津身(事代主)は国譲りに同意するが、八重波津身(事代主)の弟の建御名方は猛反対
東出雲に密かに派遣されていた、伊邪那岐の正室である伊邪那美の嫡流である大綿津見神(豊玉彦)の息子の宇都志日金拆命と共に徹底抗戦する
しかし結局負けて捕らえられ、建御名方と大綿津見神(豊玉彦)の息子の宇都志日金拆命は一緒に長野の諏訪に幽閉されて、人質にされてしまう
建御名方と宇都志日金拆命の息子たちを人質ににとられた、伊邪那美の出身地の東出雲王家の向家(富家)と筑紫城の大綿津見神(豊玉彦)は、
天照大神と天照大神・月読・建速須佐之男命の母の出身地の西出雲王家の神門臣家に手出しをすることが出来なくなり
代々男王だった出雲王国は、畿内と共に女王アマテラスを共立して
大穴持命…第8代出雲主王の西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)「大国主」は
私が国作りをして治めている国(葦原中国)は、
皇御孫命(アマテラスの子孫)が平和に世をお治めになるようお任せ申し上げると決意する
そして出雲王国には、出雲第6代目大穴持命…西出雲王国の神門臣家の八束水臣津野命のときに国引きをして領土にした、朝鮮半島の新羅があり
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が、朝鮮半島東岸の辰韓12国のうちの一国で「斯蘆」と呼ばれていた新羅を訪れた
(『三国史記』新羅本紀第二巻 阿達羅尼師今二十年〔173年〕、五月)
誰が考えたのか知らんけどよく考えたねー!
↓
>>322
>>541
>>322 >>541『エピソード5/アマテラスの逆襲』
『エピソード6/漢委奴国王の帰還』
ご存じ、神武東征
『エピソード5/アマテラスの逆襲』>>322 >>541
『エピソード6/漢委奴国王の帰還』がご存じ、神武東征
日本神話を参考にしてスターウォーズが出来たと言われる由縁
>>322 >>541
邪馬台国という名前を嫌って日本国にしたと言うのだから
卑弥呼という名前を嫌って天照大神にしたんだろ
親魏倭王の金印は魏との外交が継続していたから台与に受け継がれたんだろう
その後はどうなったか
トヨウケはウカノミタマの別名と延喜式にある
ウカノミタマに纏わる伝承は信太山の葛の葉伝説だな
ウカノミタマが黄金の箱と水晶玉を授ける話
4世紀後半の和泉黄金塚古墳からは景初3年の銘がある鏡、多数の勾玉、日本最大の水晶玉、木棺が見つかっている
木棺は卑弥呼より前の時代の近畿の墓制で九州や東海の墓制とも違う
勾玉も弥生時代の近畿地方から多数見つかるアイテムだな
親魏倭王の金印は卑弥呼より前の時代からいる在地の集団に受け渡された可能性もあるんじゃないか
ハッキリしてることは、銅鏡100枚も墓に詰め込めるだけの権力者が3世紀の奈良にいましたって事だ
墓の規模からしてデカイし
邪馬台国と絡める必要なんてないよ
むしろ寄ってくんな
箸墓古墳、西殿塚古墳、外山茶臼山古墳、メスリ山古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳はいずれも3世紀中葉から4世紀中頃までの大王墓であると考えられ、3代目にあたる本古墳は3世紀末葉の年代が考えられる
卑弥呼の時代は3世紀中頃
3世紀中頃までは田舎で見るべき勢力がなかった畿内に
3世紀末からいきなり巨大古墳を作ることが出来る大勢力が生まれた。
これは他の地域から大勢力が流入してきたとすれば説明がつく
例えば九州からとかね。
距離でいうと吉備と出雲が来たのではないか
勢力の拡大はもう少し前の、纒向遺跡だと思うけどね
あそこでの交易都市が成功したから、大きな権力になった
纒向バザーは2世紀後半から始まってる
それまでのヤマトはこじんまりとした、奈良盆地や近隣との関係しかない小さな勢力
そもそも言うて九州もどんぐりの背比べだよ
そんなに栄えた国があったわけじゃない
当時からいたんだな、ミラーマン
九州の邪馬台国が滅んだか衰退したか後に畿内に誕生した新たな豪族連合政権がヤマト
これじゃダメなの?
万世一系が崩れるから?
物証を持って言えるのは、卑弥呼の生存時期の畿内は、東海や吉備との公益が盛んで、交易都市があり
貴重な鏡をふんだんに手に入れられる権力者がいたということ
それが卑弥呼かそうでないかは知らね
同時代に北九州と近畿両方に権力者の古墳がある。近畿のほうが大規模。
つまり、北九州にあった邪馬台国が後に近畿に進出して大和王朝になったという説は現実的ではない。
当時すでに近畿で栄えていた勢力が大和王朝そのものか、その下地になるものだったと考えるのが自然。
邪馬台国が近畿にあった場合、中国の史書で唯一出てくる倭の大国が大和だったということで矛盾がなくなりスッキリ。
邪馬台国が北九州にあった場合、魏は東にある大国を認識してなかったことになり、また邪馬台国がその後忽然と消えて、日本の史書にも一切載っていないというミステリーを抱えることになる。
ピラミッドもそうだし建物もそうだけど
最初は小さいものから始まって段々と大きくなっていくものだよ
オラが作る建造物が一番デカイ
これを繰り返して建物は巨大化していく。
>同時代に北九州と近畿両方に権力者の古墳がある。近畿のほうが大規模。
これはつまり北九州の古墳ブームが畿内に伝播していった証拠やね
伝播していく過程で巨大化していったんだろう
よく分からないが、デカい方が偉い人物が作ったって話の方が通るじゃん
エジプトのピラミッドじゃないがそれは権力のデカさの表れだろ
古墳時代は東日本から始まってる
2世紀の東日本で始まった前方後「方」墳が纒向に到達している
纒向メクリ1号墳(前方後方墳)・・・葺石無し、庄内式土器
小さな古墳が無くて、いきなりだったら移転と言ってもいいけど
畿内にも普通にもっと古い小さな古墳がある
いい加減畿内によってくるな
移転してなかったとしたら畿内は邪馬台国とは無関係ということになるな。
今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた大魚や水鳥を押さえる為であったが、後には次第に飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれに異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分によっても違いがある。
倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。
食飲には、竹を編んだ高坏、木をくりぬいた高坏を用い、手づかみで食べる。
女王国の東、海を渡って千余里で、また国が有り、皆、倭種である。
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した
俺は機内に邪馬台国があったなんて一切書いてない
同時代に既に一定規模の勢力が奈良盆地にあったというだけ
既にそんな勢力があるところに、後から引っ越してきてたら
大きな戦争になってるので、痕跡が残る
ニニギノミコトと神武天皇は同じ天孫族
そうだね
これも畿内説が無視してることだが
南北朝時代に北九州しか支配していない懐良親王を中国が「日本国王」と認めたように
いくら畿内に巨大な国があろうと中国との窓口である北九州を抑えない限り
中国側に認識されることはない
特にミステリーでもなんでもない
さっき差別意識のとこで相対視が大事だよって言ったばっかりじゃん
絶対視してしまえば、そこから論理構成をしてしまうから、そこに証拠の有無の重要性を忘れてしまう
何処にあろうがそれは歴史好きな人達の好奇心をそそる問題であり、知りたいという欲を満たすものだから、私心は極力排除して考えるべき
偏りは良くないと思うよ
配布先にだけあるのはおかしいだろってツッコミもなしか?
めんどくさ
えっ・・発掘多いの畿内と北九州って常識だと思ってたけど・・
後漢書によれば邪馬臺は後漢時代すでに存在しており代々王を継ぐ30国からなる事が記されている
魏の時代で7万戸規模という事は後漢時代からそれなりに大規模な勢力であったと推測されます
しかし180年頃共立された女王卑弥呼の権力も240年頃には狗奴国と戦争に陥ってしまうほど衰退していたと思われます
こうした記録と全く整合しない畿内説の根拠は全てフィクションですね
歴史ってマジで道楽だよな
こんなのわかっても現実世界に何一つ恩恵なんてないのに
誰がこの歴史研究に携わるい人間に金払ってるの?
知識欲だよね、結局
温故知新じゃないけど昔のことを知ることで、今が見えてくるって事もあるからね
意識とか立ち位置とか、人間が存在する上で大切な事
人間にとって知識欲は大事なものだと思うよ
朝鮮人の文化的侵略行為に対抗する為にきわめて重要。
卑弥呼が貰ったのは100枚
そしてその100枚全てを卑弥呼がガメて何の意味がある?
普通に考えて配るだろ
全く同じ形式の墓100基に一枚ずつ同じ鏡が副葬されていた
というならわかるが
三角縁神獣鏡は600枚以上見付かってるしなw
歴史は現代人を工作するための洗脳
パクリ密造所だったてことは
魏志倭人伝には女王国の市の監視を担っていた「大倭」というのが書いてある
それがヤマトである確率は高い
隋に対して畿内政権は、「かつて邪馬臺国に属していた者だ」と説明したわけよ
しかしこの時点でまだヤマトという組織名や地名は存在していないと思われ
わざわざ文字を変えて邪摩堆と語尾がタイであることが強調されている
出てきたものを時代が近けりゃなんどと邪馬台国に結び付ける思考停止。低能だな。
古文書ミステリーに考古学の出る幕なし
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