北九州の海人族で
こちらは素戔嗚との「誓約」によって
結ばれたと考えられるていう
何処にも書いてないよ
大和の史書である記紀にも書いてない
デマは犯罪ですよ
>>268
隋書倭国伝に書いてる
その時代に邪馬台国=大和ていう
ストーリーが出来上がってたてことだね
遣隋使を派遣したときやね>聖徳太子
畿内はヤマトとは名乗っていない
畿内がヤマトではなくヤマタイと名乗ったのであればオレオレ詐欺
魏志倭人伝を参照した筆者の解釈を記載したというのが妥当
ちなみにそのころどんなストーリーが出来上がってたというの
邪馬台国は畿内にあった派の聖徳太子が
九州説の抹消を企んで隋に邪馬台国は大和国と吹き込んだとでも言うつもり
そもそも聖徳太子の頃に九州説なんか
存在しないだろw
どいつもこいつも邪馬台国→ヤマト政権
という流れに固執しての位置論争なわけで
それがあるんだよ
筑紫城にいて、天智・天武で遷都してきた
法隆寺はその時移築したっていう、最狂な九州がね
世界線が違いすぐる(合掌)
筑紫城にロマンを感じて、辞められない止まらない
因みに何処に筑紫城があったのかというと、太宰府政庁跡の地下にあって発掘できなくて悔しいらしい
だいたいこの層が、筑紫の日向を筑紫国の日向峠だと言い張ってる層と重なる
福永晋三さん?
607年
奈良の飛鳥京から「日出処の天子……」の国書を持参した小野妹子が遣隋使として派遣され
小野妹子の帰国に同行するかたちで、煬帝が勅使「裴世清」を派遣
608年
煬帝の勅使「裴世清」の帰国に同行するかたちで
奈良の飛鳥京が、再び小野妹子を遣隋使として派遣
636年 唐(618年 – 907年)の時代
太宗の命で編纂された『隋書』に
遣隋使を派遣した大和政権のことを【「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である】と書かれた
720年
唐の学者を招いて、九州から神武が奈良に東征したのだという日本書記が完成する
南北朝の宋(420年 – 479年)の時代、432年以降に
後漢(25年 – 220年)について書かれた『後漢書』には
後漢(25年 – 220年)は57年に、九州の倭奴国を「漢委奴国王」に任じたと書かれている
唐(618年 – 907年)の時代、太宗の命で編纂された『隋書』には
遣隋使を派遣した大和政権のことを【「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である】と書かれている
後晋(936年- 946年)の時代、945年に書かれた『旧唐書』では
その、「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である日本国のことを
古の倭奴国(九州の漢委奴国王の倭奴国)とは違う国だと書かれていて
北宋(960年 – 1127年)の時代、1060年に書かれた『新唐書』では
日本は、筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が移って統治していると書かれている
日本の記紀では
九州にあったのは、出雲から山幸彦が訪れた、豊玉彦命(綿津見大神)の「海神(ワダツミ)国」となっている
初代天皇「神武」は、倭奴國の漢委奴国王の子孫
東征した先にあったのが邪馬台国
新唐書の筑紫城は宋の時代の偽書に踊らされてただけだよ
根拠
淡海三船(722~785)が諡号するまでは、歴代天皇には中国風の漢風諡号は存在していない
※諱と和風諡号しか存在しなかった
新唐書には、筑紫城にいたとされる歴代天皇を漢風諡号で書いている
つまり722年以降に作られた内容を元に新唐書は書かれている
ちょっと違う
夏・殷・周・春秋・戦国時代を経て、
秦・漢・魏・晋・五胡十六国・南北朝・隋・唐・五代十国・宋・遼・金・元・明・清
という中国の歴史上の皇帝の中で、
漢・唐・宋・明は、れっきとした漢民族出身の皇帝
奈良が国交を回復したのちの唐・宋・明にとって
魏・晋は、裏切り者の簒奪者
親魏倭王はその手下
新唐書は日本が渡した日本記の丸写し
ヤマトが大和州と記されている
奝然(938-1016)作の王年代記だよ
明史倭国伝に秀吉は薩摩州の奴とかいてあると言い張るようなもんだな
>>268
隋書倭国伝に書いてる
その時代に邪馬台国=大和ていう
ストーリーが出来上がってたてことだね
遣隋使を派遣したときやね>聖徳太子
畿内はヤマトとは名乗っていない
畿内がヤマトではなくヤマタイと名乗ったのであればオレオレ詐欺
魏志倭人伝を参照した筆者の解釈を記載したというのが妥当
ちなみにそのころどんなストーリーが出来上がってたというの
邪馬台国は畿内にあった派の聖徳太子が
九州説の抹消を企んで隋に邪馬台国は大和国と吹き込んだとでも言うつもり
そもそも聖徳太子の頃に九州説なんか
存在しないだろw
どいつもこいつも邪馬台国→ヤマト政権
という流れに固執しての位置論争なわけで
それがあるんだよ
筑紫城にいて、天智・天武で遷都してきた
法隆寺はその時移築したっていう、最狂な九州がね
世界線が違いすぐる(合掌)
筑紫城にロマンを感じて、辞められない止まらない
因みに何処に筑紫城があったのかというと、太宰府政庁跡の地下にあって発掘できなくて悔しいらしい
だいたいこの層が、筑紫の日向を筑紫国の日向峠だと言い張ってる層と重なる
福永晋三さん?
607年
奈良の飛鳥京から「日出処の天子……」の国書を持参した小野妹子が遣隋使として派遣され
小野妹子の帰国に同行するかたちで、煬帝が勅使「裴世清」を派遣
608年
煬帝の勅使「裴世清」の帰国に同行するかたちで
奈良の飛鳥京が、再び小野妹子を遣隋使として派遣
636年 唐(618年 – 907年)の時代
太宗の命で編纂された『隋書』に
遣隋使を派遣した大和政権のことを【「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である】と書かれた
720年
唐の学者を招いて、九州から神武が奈良に東征したのだという日本書記が完成する
<1~2世紀>
「建武中元二年(AD57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
光武賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年(AD107年)、倭の国王師升等、生口百六十人を献
じ、請見を願ふ。桓・霊の間(2世紀後半)、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主無し」
【ポイント】
・倭人は呉越の末裔だった
・奴国が倭の最南端だった
・2世紀時点で倭を治めていた王は「師升」
・2世紀後半は倭国大乱となり統一王は存在しなかった
<2~3世紀>
「旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」
「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り。~」
「その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至るは、万二千余里なり。」
【ポイント】
・倭国100国のうち魏に朝貢したのは女王国30国のみ
・戸数や里数表記された国々は女王国の北部に位置する国々である
・女王国の東には海があり、その先1000余里にまた倭種の国がある
・女王国の南には反女王派の狗奴国があった
・帯方郡から女王国まで約12000里である
新唐書は明確に間違いだとハッキリするのは、雄略天皇も筑紫城に住んでいた事になる点
雄略天皇(ワカタケル大王)は、金錯銘鉄剣、銀錯銘太刀で、生存年と宮の場所が明確にわかっている
筑紫には居ない
そっちが正しいかもしれんじゃん?
新唐書の筑紫城が嘘という明確な物証があるってお話し
■『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、—東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国—–(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
魏略は?
魏略、魏志、広志が編纂時に参照した記録類自体は共通だろう
解釈がそれぞれ微妙に異なるだけで
まーなー
魏略だと伊都国は万戸だったりするから、魏志倭人伝間違ってねーか?とか思うけど
一次資料が残ってるとしたら平壌近郊か
発掘調査出来る日は来るのだろうか
そこが天孫降臨した日向の国てこと
邪馬台国はそこに滅ぼされてるはずなのに
この国の建国神話は成り立っている
このままファンタジーをあれこれ論ずるのか
それとも歴史的事実に向き合うのか
参考:https://i.imgur.com/YN7VCTk.png
【基礎知識1】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語(上海語)で読むと「シャマイ」国となる
・以降の史書に出てくる「邪馬臺」や「邪摩堆」は語尾が「タイorダー」であり「ト」と発音する文字は使われていない
※トと発音する場合は「都」という文字が使われている→伊都国(イトコク)
・後世のヤマトは識字能力が低かったのか、邪馬壹=ヤマトと読んでいたが、新井白石と本居宣長がこの誤読に気付き、邪馬台国論争が始まった
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている
※魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
魏志倭人伝に記載されているのは「邪馬壹(ヤマイ)国」
後漢書では「邪馬臺は邪馬惟(ヤマイ)が訛ったものだ」と書かれています
邪馬台国の人が「ヤマイ」のことを九州弁で「ヤマイたい」と答えたのでしょう
コメント