漢の言う「倭国」とは
違う
倭には100国あったがそのうち女王国は30国
女王国の東に海があり、それを渡り千里行くとまた倭種の国々があると書いてある
女王国の南には対立していた狗奴国というが男王国があるとも
女王国は倭の西の端という事
つまり北部九州が女王国
邪馬台国が奈良にあれば滋賀は邪馬台国の範囲なんだよ。北陸・東海も範囲に入る。
女王国の東には海があり渡海1000余里で又国がある、皆倭種
だぞ?
静岡、房総
何処から見てんの?
邪馬台国は博多湾より南だが?
陳寿が南国をイメージしているので記録に南と書いてあったのは確かだ
儂は太宰府だと思う、後年に九州を治める官庁を作るときは
地勢的に良く道路網も整備された土地…都跡を使うはずだよ
卑弥呼の宮は太宰府に有ったとおもうな
北部九州は漢の言う倭国
漢委奴国王の倭奴國
魏に対して反乱を起こした公孫氏の帯方郡に属していた
魏が公孫氏を平らげた後、卑弥呼の朝貢が来たと書いてある
北九州は大陸との窓口だったし、筑紫平原に有明海等の好漁場、一大勢力圏が出来ないほうがおかしいんだよ
大和盆地の中に引きこもった豪族が覇を叫んでも無理だよ、南九州、安芸に吉備、播磨の豪族達が何方に付くか考えなくても判るだろ
大陸からしたら窓口は北九州の邪馬台国しかないんだよ
ライバルは日本海交易の一つ出雲や丹後・若狭かな
だいたい同じ意見
でも、出雲系は別系統で南九州は北部九州と同じ系統じゃないかと思うわ
太古の九州でも後継者争いから南北朝時代に突入
南九州の本家(南)は分家の一族を吉備に派遣、出雲系と同盟を組んで畿内を従わせて連合国を形成、そこから一気に北部九州を制して本家(北)を滅ぼした
ところが今度は権力を握った分家が南九州の本家(南)と対立、南九州だけ正当性を主張して新政権に何百年も抵抗し続けた
…とかね
まぁ、証明しようがないから想像だけど
北九州に政権が出来て、安芸や吉備、出雲等の豪族たちか棲み分けて安寧に暮らしていたが
大陸が混乱し、その圧力から逃れる為に天然の要害な大和盆地へ疎開したのだと思っている
だから、大和朝廷初期から豪族達の力が衰えていないだろ
日本って城壁都市か一つも無い世界でも珍しい国なんだ、小さな環濠集落は有ったが城壁都市は無い、中国は城壁都市国家…囲碁は城壁都市世界わ模した戦略ゲームだからね
韓国のソウルも周囲を城壁に囲まれていた街だよ、なのに中国の影響を受けた日本列島には城壁都市が一つも無い
コレは日本列島では豪族同士の争いが無かった証拠で、記紀の争いの記述も中国や欧州とは大きく違っている、いわゆるお家騒動やヤクザの縄張り争いの大きいヤツなんだよ
それは日本は島国でよく似た民族同士で争うからだと思う
民は土地を耕す奴隷でいなくなったら困るから、勝ったほうは民ごと土地を奪って支配する
ところが大陸や半島だと、全く違う民族の民を支配するのが難しいから民を皆殺しにするのが当たり前
結果、民も協力して城壁都市を形成して自分たちを守ってきたんじゃないかな
日本人は南洋系漁労民族だからすぐに海に逃げるんだよ、農作物は年に一度だけしか収穫出来ない、代替作物を植えても収穫まで何ヶ月も掛かる、よって隣の街を襲うしかない
魚は不漁でも翌日挑戦出来る、年中穫れるから隣の街を襲う必要が無い…面倒な城壁はイラネ
漁労民族の証拠は、日本家屋は高床な建物南方系のツリーハウスの流れだからね、大陸系は土間生活なのに日本だけ不便な高床生活
ツリーハウスか、なるほど
確かに弥生時代は稲作のイメージが強いけど狩猟採集と併用していたようだし、不作なだけならお隣から奪うより海に行くね
小さな島々もあるし、北部九州は島を信仰する習慣もあったんじゃないかと思う
志賀島や能古島の神話も面白いよ
>>110
お二人のように魏志倭人伝に引っ張られない方が良いと私も思います
南シナ海沿岸から北上した海人族が海賊団(海商)を作って、漢の衰亡で親漢海賊団VS親魏・親呉海賊団が倭国大乱と呼ばれる事かも
朝鮮南岸へ行ってた海賊団の流派が丹後・若狭湾に来て奈良に入ったのかも
で、最初に鹿児島に上陸して宮崎県へ行った流派が九州東海岸を北上して瀬戸内から奈良へ入ったのかも
神様が女性ってのが海人族の信仰かもしれません
アマミキヨやアマテラスや比売大神や宗像三女神や、厳島神社の祭神に宗像三女神の一人が入ってますから
>>110
お二人のように魏志倭人伝に引っ張られない方が良いと私も思います
南シナ海沿岸から北上した海人族が海賊団(海商)を作って、漢の衰亡で親漢海賊団VS親魏・親呉海賊団が倭国大乱と呼ばれる事かも
朝鮮南岸へ行ってた海賊団の流派が丹後・若狭湾に来て奈良に入ったのかも
で、最初に鹿児島に上陸して宮崎県へ行った流派が九州東海岸を北上して瀬戸内から奈良へ入ったのかも
神様が女性ってのが海人族の信仰かもしれません
アマミキヨやアマテラスや比売大神や宗像三女神や、厳島神社の祭神に宗像三女神の一人が入ってますから
ひこにゃんピンチ!
という事は、卑弥呼が女王となった2世紀末時点で7万戸に近い人口規模であったはず
魏志倭人伝の倭人の暮らしぶりや気候の描写や集落の密度を合わせて考えると北部九州一帯とくに筑紫平野がピッタリなんだよな
あと方角が合わないが山陰や若狭湾付近かな
邪馬台国は単なる一都市の名称であって、連合体の名前ではない
根拠
魏志倭人伝には、邪馬台国にも他の国と同じく、官と副の名前が書かれている
この事から一国の名前が邪馬台国だということが裏付けられる
飽くまでも他の国と同列?の扱いで書かれている
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮
また当時人口が7万戸、約35万人にも達するような都市は存在していない
現代の都市人口すら引き離すような都市国家の遺跡はどこにもない
例
現代の都市人口
八女市6万人、宇佐市5万人、佐賀市20万人、太宰府市7万人
7万戸、35万人規模の都市は現実的にありえない
金になるから
記録に残ってんのがそれだけだから
あとは記紀の神話
帥升がいるけどな
恐らく個人名が記録に残る最古の人
渡来人が韓半島から持ち込んだ鉄器と馬で九州の邪馬台国を滅ぼして倭国を統一した
渡来人だから中国道教の神である『天皇』を自称した
つまり天皇家の血統は渡来人である韓民族
今だに渡来人説かw 日本列島には石器時代以前から人が住んでいて、代理とも半島とも行き来がある世界だよ、少数の渡来人が征服できるはずが無いだろ
ソレは渡来人の文化が残っていないのが証拠だよ
騎馬民族説…騎馬民族が持つ去勢の技術も知恵も無かった
大陸系農耕民族なら大陸の城壁都市文化の痕跡があるはずなんだが、全く無い
それ。弥生時代後期に大陸や半島から秦氏(O-M112)などの渡来系は土木技術などを持ち込んだが、これは明瞭に記録にも残っている。
それ以前からいた日本に多いアジア系(O1b2)は朝鮮に多いグループと7900年前に分岐しておりこれは縄文時代である。縄文海進の時代と符合し、その共通祖型はそれ以前にすでに列島にわたっていたことが推定される。
これが物部氏のニギハヤイだと規定でき。いわゆる出雲系もこの系統で弥生時代には北部九州、半島南部、山陰、北陸、中部、関東、東北含む広範囲にすでに存在していた。また、物部氏と関係が深かった中臣氏も同じ系統でその根拠地とされる中臣遺跡からは旧石器時代の遺物が出てきている。日本海を仕切っていたグループでもあり滋賀も物部の強い地域である。火焔方土器(最近の研究でこれは水がモチーフだとわかってきている)の分布域とも重なる。
それに対するニニギは天孫系でD系統であり蘇我氏もこの系統である。太平洋岸に多く九州南部、四国南部、紀伊半島、東海に多く存在していた。土器も火焔型土器の出土はなく縄文土器であっても弥生土器のような装飾がないものがほとんどである。秦氏などの渡来系はこのグループが当用を始め土木工事などによる勢力拡大の基礎となり古墳時代に至る。
以上から国譲り神話にあるようにこの二系統の対立からの和平が日本の先史の始まりである。
蘇我氏が排除されたのは渡来系を重視しすぎ物部や中臣の排除に向かったからで日本の両系統の和平による先史を重視するグループによって排除された。
180年頃:倭国大乱終結および卑弥呼が共立女王となる(邪馬台国誕生)
193年:倭人が飢饉。多くの避難民が半島にわたって来た
~ 卑弥呼が最も活躍した時期 ~
239年:卑弥呼、魏に使いを送り「親魏倭王」の号を受け取る
~ 卑弥呼の力が弱くなったか? ~
2XX年:女王国vs狗奴国の戦争勃発
247年:卑弥呼死去
景初三年(239年)や正始元年(240年)という魏の年号の入った
畿内で見つかる三角縁神獣鏡や画文体神獣鏡
何処のなんて古墳から出たの?
景初三年(239年)の銅鏡はどこの古墳から出たの?
大阪の黄金塚(きがねづか)古墳など
後漢書 東に海を渡るとみな倭種といえども女王に属さず
宋書 倭王武「先祖が西に66国平定した」← ← ← ← ← ← ← ← ←
隋書 (東に海を渡ると)十余国で(難波津の)海外に達する 筑紫より東はみな倭に属す
魏志から隋書まで並べてみると当時の日本に何があったか一目瞭然だった
系統でいうと諏訪大社とかの方
中国系という説があって私はこれを支持
すすんだ製鉄技術は秦氏でこれが土木工事の基礎だった。
天孫系はこの系統とは違う。D系統で男系が守られてきたことで証明出来ている。これが歴史的には重い。奈良には現在の皇室と少し違うD系統があるようで蘇我氏がこれかもしれない。
天智天皇は滋賀とも関わりが深く。O1b2との和合が権力の基礎であっり。その男系継承者である光仁天皇の婦人の高野新笠が百済王の家系ということはO2系統の家系の可能性も高くにほんの現在の主力3系統のバランスの上に立っているといえる。京都の位置は秦氏と中臣氏の根拠地が東西にあり。南北は出雲系と熊野系の接点の位置にある。
それはもう藤原氏が歴史書を書ける立場
になった後の時代の話だね
渡来人重視しすぎの蘇我氏打倒の正当性をいうために列島の歴史を深掘りし日本という概念を打ち立てた。
中国から見れば日の本というのは、東の国という意味で中華思想的には受け入れ可能。日本人的には日の根本というアイデンティティを作り出した。
よって、真南(潮岬)方向に熊野本宮をおき。日が昇る方向に伊勢神宮をおき。これはあまり現在は意識されていないが日が沈む方向に日前神宮・國懸神宮を配置した。
そして京都には熊野本宮の真北に下鴨神社をおいた。
京都にある玉座の高御座の位置を動かせない理由はまさにこれ。
天孫系は婚姻により皇統をジャックした
それが邪馬台国=女王の国を滅ぼし
大和朝廷が成立‥というシナリオ
(日本なら天照の末裔を名乗ればよかったのに)
それは天皇家が渡来人だったから
改新の詔を読めば明白。
大王(自らも含め)はじめ各豪族の支配から離脱し天皇の下に集まれという王家によってできた革命政権だから。
それで初めて戸籍(日本人登録)を作った。
天皇は君という二人称で呼ばれる(国民と同格)存在になった。
英国で王室を二人称で呼べばぶっ殺されます。
なぜ女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来るのか、それは女王国に来る時に通ってきたから
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
なぜ女王国に来る時に通ってきた国々には、特に一人の大率を置いて監視しなければならず
女王国に来る時に通ってきた国々は、これを恐れはばかっているのか
それは女王国に来る時に通ってきた国々は、天照大神が武力制圧した出雲諸国だから
東南陸行五百里到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚
有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐
王は出雲主王
常に出雲で政務を執っているのは、奈良の天照大神が派遣した天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
ちなみに古代出雲王国は、2つの王家、東の向(むかい)家と西の神門臣(かんどのおみ)家が、交代制で主王と副王を勤めており
天照大神が國譲りを迫ったときは8代目の王の時で
主王は西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)
副王は東出雲王家の向家の八重波津身(事代主)
ちなみに国引き神話で有名な人物は6代目主王の、西出雲王家の神門臣家の臣津野で、その息子は、隠岐の吾田片隅
大和政権が使用した海人宗像氏の祖である
伊勢-中部地方出雲系各氏と
出雲-北九州(宗像)との政治的トレード
黒漆でコーティングされた絹の靫なんて、なかなか面白いものだぜ?
そうまさにそう
なんでもかんでも邪馬台国とか言い出すから肝心の話が何も出来ない
この遺跡も靫を祭祀に使ったとか現代の神道祭祀にも通じる面白そうな話なのに
しかも絹で黒漆塗りだからな
この前の吉野ヶ里もバカみたいに邪馬台国言うから棺の印とか面白い話は誰もしやしない
240年頃は邪馬台国が魏に遣いを送ったあたりの一番大事な年代なので邪馬台国抜きには考えられません。
魏志倭人伝自体が外国人が伝聞で書いたもので正確性があまり担保されんがな。
古史古伝よりは信用できると思うが。
纏向とこの稲辺遺跡と近くの伊勢遺跡の祭祀と共通点が沢山あるから相互に関係があるのかも知れない
面白いな
柚比本村遺跡の紀元前の鞘
https://lunabura.exblog.jp/23776274/
コメント