2015年末アンケート結果
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
都道府県別結果と半島系固有DNAの分布
>>205
>>201でバレてるんだからさあw
まさに半島人だなw
半島固有のDNAが西日本に多いのは明治以降の移住者による。それを歴史資料として扱うのは明瞭なギミック。
九州説は日本の歴史もよく知らない事はもうバレてる
半島由来の統一工作員が九州説
silent night holy night🎵
天照大神が國譲りを迫ったときは8代目の王の時で
主王は西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)
副王は東出雲王家の富家(向家)の八重波津身(事代主)
ちなみに
国引き神話で有名な人物は6代目主王の、西出雲王家の神門臣家の臣津野で、
その息子は、隠岐の吾田片隅
大和政権が使用した海人宗像氏の祖である
神武東征で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長は、東出雲王家の富家(向家)の
登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)である
歴史をよくわからないものというように認識させて嘘つき放題でニセの歴史を信じ込ませること
天孫系D系統は黒潮に乗って太平洋岸に漂着したが有力だが。
残念、ヤマト王権は隼人の太平洋黒潮ルートだ
一応系図もある
九州民はとりえあず舗装されていないところを全部掘り返せよ
何か出てくるだろ
という無知畿内説特有の言動パターンw
少しは調べろチョソw
東征した神武は、筑紫城の漢委奴国王の第4皇子
だからな
天皇は北魏で確立した道教、五胡十六国の天王から来てます。
バーミヤーンじゃねえの?北魏って
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある
せめて北魏語でも見つけてほしい
現実だから仕方がない
女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、
九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある
纏向遺跡は、2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡であるが、農民が居住している痕跡が無い
それ内宮で
外宮は弟(実質的な王)の居館跡だろう
畿内説は伊勢説に鞍替えしる
奈良盆地は狗奴国てことにして
女王の国とは海域の海洋権益を争ってた
てことにすれば辻褄が合うw
女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記される
が、
九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある
纏向遺跡は2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡で、
吉野ヶ里遺跡の3倍の広さがあるが、
農民が居住している痕跡が無い
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
九州説だった東大が、なぜ纒向遺跡を
圧倒的で、邪馬台国だろうと思っているのか
女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記される
が、
九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある
纏向遺跡は2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡で、
吉野ヶ里遺跡の3倍の広さがあるが、
農民が居住している痕跡が無い
纏向は当時の遺跡としては群を抜いて日本最大の物だから
それと農民がいた形跡がない事から、逆に京城であると見なされたんだろう
何で吉野ヶ里集落と比較してるの?
邪馬台国は7万戸の北部九州連合国だよ?
100年間以上
吉野ヶ里の3倍もの範囲で
農民が生活した痕跡がない
纏向遺跡
だからあの辺一帯は唐古鍵閉鎖後は墓域だったと寺澤さんが言ってただろ
いわば纒向は古墳建造指定区域だよ
伊勢を畿内に閣議決定
伊勢神宮は場所を転々としてる
元伊勢って聞いたことないか?
場所を伊勢に定めた途端祟りが収まったという話は面白い
この地にどんな意味が有ったのかと
元伊勢の出立点は三輪山檜原神社
つまり纏向のすぐ近くてことで
狗奴国がその後の大和朝廷のベースに
なっていると私は考えている
邪馬台国は滅んだと史籍に書いてあるのに
そこをなぜすっ飛ばすのか?
わろた
でも纏向説よりは説得力があっていいと思うわ
マジで言ってんのよ?w
マップで宇治山田神社て調べてみて
墓の記載とサイズ感ピッタリだし
見てきた
これいいね
纏向説は違和感だらけだけど、伊勢ならありそう
おもしろい
女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記される
が、
九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある
纏向遺跡は、吉野ヶ里遺跡の3倍の広さの2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡であるが、農民が居住している痕跡が無い
[九州説]
・魏志倭人伝の行程とほぼ合致
・卑弥呼の時代から存在するクスノキ
・吉野ヶ里の日吉神社の下の甕棺墓で絹を纏った巫女の遺骨発見
・大量の鉄製武器、鉄製工具他(魏志の記録に合致)
・絹および紡績用具
・警備厳重な城柵に囲まれた吉野ヶ里遺跡
・中国から授かった漢委(倭)奴国王の金印
・すずり、およびすずり工房(文書を用いていた)
・魏王の鏡と同型の鉄鏡
・殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳
・八女市でも弥生後期の集落発見(調査中)
[畿内説]
・定住者がほとんどいない大集落
・東海・伊勢産の飯炊き土器と残飯各種(鯖の骨、猪の骨)
・柱の細い大型建物(古墳被葬者の遺族向け宿泊所?)
・農具は無く、大量の木製土木用具
・東日本で流行った仮面(木製)
・大型建物の柵列の下の穴に捨てられていた桃の種
・同じく蛙の骨
・箸墓古墳で出土した馬具(中国のより古い4世紀初のもの)
・唯一の弥生遺物「銅鐸の破片」
このレス毎回おもしろいw
邪馬台国はあなたの心の中にあるのです。
闇が深すぎるのかもしれない
日本「桃うめぇ」
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、九州の遺跡はどこも、農民が居住している痕跡がある
纏向遺跡は、吉野ヶ里遺跡の3倍の広さの2世紀末から4世紀前半にかけての遺跡であるが、農民が居住している痕跡が無い
それをとらえて、本居宣長が卑弥呼は神功皇后を装った九州の女酋長だと主張している。
滋賀はかなりポイントの場所で、近江宮、大仏をつくろうとした紫香楽宮など天皇とは関わりが深い場所の一つ。物部の勢力も強かった地域であり。平城京設立の際もその木材を伐採し瀬田川経由で運んだ場所が現代にも残っており。天智天皇の近江宮遷都も唐突で白村江で負けたから引きこもった説まであるが、神功皇后を支えたより主戦的な地域に移ったとも言える。
ウヨクやってる奴らがいかにこの国の歴史に無関心無知なのかわかる
歴史を無視してやたらと近代の戦前戦中ことばかり喚くのもそこから来てるんだろう
調べれば調べるほど日本の独自性が明らかになっているわけだが。
その独自性を示す古代の遺物が大型銅鐸だ
中国には無い未だに意味不明な大型銅鐸崇拝?文化だ
かつて銅鐸文化圏と言われた山陰、近畿、東海は中国への朝貢を嫌い独自の独立国家形成を目指した
朝貢を怠ったので中国史書に彼らの記録は無い
魏志倭人伝では東の倭種の国と一括りにされた
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