魏志にある邪馬臺の事であると書いてるから
魏志には邪馬壹じゃなくて邪馬臺と書いてあった事になる
邪馬壹は後世の誤記
畿内までの道のりが魏志倭人伝の道のりと全く違うので倭人は里を知らないと書かれてしまった
畿内の倭人も邪馬台国なんて知らない状態
そうした状況で書かれたのが隋書なので
「邪靡堆はたぶん魏志の邪馬臺だろう」
と筆者なりの解釈を記載した
畿内が中国とずっと交流していたのならこれらの文章は必要なかったはずだ
他の史書と同様に行程紹介の箇所で「~東至邪馬堆」と書かれて終わる話
わざわざ改めて紹介されたのは、魏志の記録とはあまりに位置が違ったからである
つまり魏志の邪馬臺と隋書の邪靡堆は別物だ
邪靡堆(邪摩堆)は倭の都とあるから
大和の事だよ
プロバイダのせいだからな
北宋(960年 – 1127年)の時代、1060年に書かれた『新唐書』では
日本は、筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が移って統治していると書かれている
より300年前にはすでに
大和は
「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が東征して統治している
というストーリーが出来上がっているむ
最新の炭素年代測定でもAD240~340
後ろの方だと言いたげなやつもいるけど、データはそうなってる
奈良の飛鳥京から「日出処の天子……」の国書を持参した小野妹子が遣隋使として派遣され
小野妹子の帰国に同行するかたちで、煬帝が勅使「裴世清」を派遣
608年
煬帝の勅使「裴世清」の帰国に同行するかたちで
奈良の飛鳥京が、再び小野妹子を遣隋使として派遣
636年 唐(618年 – 907年)の時代
太宗の命で編纂された『隋書』に
遣隋使を派遣した大和政権のことを【「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である】と書かれた
720年
唐の学者を招いて、九州から神武が奈良に東征したのだという日本書記が完成する
つまり、
984年に宋に留学した東大寺の奝然が太宗に職員令と「王年代記」と呼ばれた年代記を献上した250年前
北宋(960年 – 1127年)の時代、1060年に書かれた『新唐書』に
日本は、筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が移って統治していると書かれた300年前にはすでに
中国
大和は「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
日本
筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が東征して統治している
というストーリーが出来上がっている
新唐書(王年代記はデタラメ)
それが正解
本場中国ではそれが結論だったはず
日本人は余計な事考えすぎるから答えが出ない
宋(960年 – 1127年)の時代、1060年に書かれた『新唐書』に
日本は、筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が移って統治していると書かれた300年前にはすでに
唐
大和は「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である
大和政権
筑紫城に居住する彦瀲の子の神武が東征して統治している
というストーリーが出来上がっている
しかし、遣唐使が廃止されると、
九州から商売には来るけれど
大和から挨拶には来ない日本国
に対して、中国に疑念が生じる
後晋(936年- 946年)の時代、945年に書かれた『旧唐書』
その、「邪靡堆」を都としており魏志の邪馬臺である日本国のことを
古の倭奴国(九州の漢委奴国王の倭奴国)とは違う国だと書かれる
そこで平安時代末期、平清盛が宋との貿易拠点を
博多を素通りさせ、九州から神戸に遷すにあたって
984年に宋に留学した東大寺の奝然に職員令と「王年代記」と呼ばれた年代記を太宗に献上させ、あらためて
日本国は古の倭奴国から、彦瀲の子の神武が東征して統治していると説明し信用させたんだわ
ガセ
なかなか勉強になるだろ
https://ja.glosbe.com/hu/ja/gyarmat
つかgyarmatじゃね?
ヤマトって
神武東征で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長は、
東出雲王家の富家(向家)の
登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)
天照大神が國譲りを迫ったのは8代目の王の時で
主王は西出雲王家の神門臣家の八千矛(大国主)
副王は東出雲王家の富家(向家)の八重波津身(事代主)
国引き神話で有名な人物は6代目主王の、西出雲王家の神門臣家の臣津野で、
その息子は、隠岐の吾田片隅
大和政権が使用した海人宗像氏の祖である
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