天智天皇は博多湾か太宰府あたりに住み着いて
朝鮮半島にちょっかい出してたら
唐が出てきて、白村江でボロ負けして
さらに唐が攻めてくる可能性があったので
近江大津宮に疎開して、偉そうに振る舞っていたら
後の天武天皇にクーデターを起こされ
政権を取られた。
九州政権から畿内政権に変わったのはそういう理由である。
のちに遣唐使を送ったが
畿内政権は玄界灘の船行に詳しくなくて
4/1程度が遭難沈没した。
ちなみに、九州政権は白村江のときに
48000人の兵士を朝鮮半島に送るくらい余裕だった。
九州王朝説って、蘇我氏とか物部氏とかどういう解釈してるの?
皆九州の豪族になっちゃうわけ?
そっちは詳しくないのでわからん。
大分あたりに国を造っていた外来系の
泰(ハタ)氏がいるらしい。
この辺は、蘇我氏あたりと関係があるんだろうかね?
「天皇家」も「賀茂氏」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」。
みんな元を辿れば全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
ここでいう「仮称忌部一族(阿波勢力)」とは、衰退した平安時代の
『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
倭人とは「仮称忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、
全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
「仮称忌部一族(阿波勢力)」の一派、忌部(斎部)氏は、
物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波
邪馬台国が九州にあったってことは、神武東征がガチっぽいってこと?
アリだと思うけどそうすると神武天皇即位が紀元前660年ではなく西暦300年以降になり
1000年近くサバ読んでました
ということになるから絶対にそれを認めたくない人達がいる。
万世一系の始まりが紀元前660年か西暦300年以降かなんて
どっちでも構わないと俺は思うがね。
サバ読むってか記紀書いた人らも120歳をガチで真に受けるとは思わんかっただろうな
記紀は天武朝の正当性を書いた物であって書かれている事全てが正しいわけじゃない
天武のご先祖が元々日向と縁が深いんでしょ?知らんけど
>記紀は天武朝の正当性を書いた物
律令国家として王統継承を合法化するための証として
「阿波」の特産品である「三種の神器」を飛鳥時代に創設制定したことによる。 @阿波
トヨ国の海岸沿いなんか、浜辺の砂に砂鉄だらけだから、いくらでも製鉄できそうだが。
博多湾の砂鉄層は結構多いな。
今の九大糸島キャンパスらへんには
6世紀から7世紀の製鉄高炉跡があった。
時代的には白村江の兵士の武器を
作っていたかもしれない。
製鉄工房跡は古墳時代あたりから、日本各地に一気に広まる
九州だけでなく、勿論吉備もあるし、千葉にすらある
>製鉄工房跡は古墳時代あたりから、日本各地に一気に広まる
鉄器王国「阿波」は、前漢時代からやってるがな。 @阿波
>製鉄工房跡は古墳時代あたりから、日本各地に一気に広まる
「倭人(阿波勢力)」が日本各地に一気に進出していったからな。 @阿波
その頃の阿波は南海トラフの津波で更地になってただろ
>その頃の阿波は南海トラフの津波で更地になってただろ
南海トラフの津波ぐらいでへこたれるような「倭人(阿波勢力)」ではない!
津波など、慣れたもんだ。 わははははは @阿波
もう、糸島は高炉だから
鉄の量産に入ってますね。
邪馬台国は九州のどこかかもしれないけど北九州はねえわ
そもそも邪馬台国の場所を探求するのに神武東征考える意味も必要もない
そもそも畿内説ってどっから根拠出てるんだ?
畿内が4世紀に筑紫征服したのは記紀にはっきり書かれてるだろうに
>畿内が4世紀に筑紫征服したのは記紀にはっきり書かれてるだろうに
堂々と嘘をつくな! @阿波
中国側の記載から分裂していた倭国が主にこの頃に纏まって大国になった
同時期に全国各地で前方後円墳が広まったから恐らくこの事を指しているのだろう
前方後円墳始めたのは今の所畿内が有力だから時間軸で考えると邪馬台国は畿内でいいんじゃね?
こんな感じじゃないの?
>前方後円墳始めたのは今の所畿内が有力
始めたのは、「倭人(阿波勢力)」だがな。 @阿波
やっぱり九州だったのか
阿波に大きな勢力があったとしても
それが邪馬台国とは限らない
邪馬台国とは別に大きな勢力かあった、後の大和朝廷に繋がるような勢力があった
ということだろう。
>邪馬台国とは別に大きな勢力かあった
「倭人(阿波勢力)」以外にどこにもいないんだから、どうしようもない。 @阿波
筑紫は元々は、筑後を持たずに
筑後川以北が勢力圏内だった。
景行天皇が筑後を取り、段々拡大して
九州全体を支配下に入れた。
景行天皇の本拠地は久留米高良大社
その次の成務天皇は不明。
次の仲哀天皇は北九州だが亡くなり
福岡市の香椎宮に葬られている。
妻の神功皇后はその近くの宇美で
応神天皇を生み都へ帰った。
つまり、この辺は九州ネタばかりなのよ。
おそらくは太宰府らへんには、
最古に近い戸籍が出たように
記録文書をかける人間がいて記録が残っていた。
それらをネタにして、記紀を書くときの
資料にしたんだろうね。
太宰府で見つかってる木簡も7世紀のものなのよな
それより古い木簡がまだどこからも見つかってない
過去のことを記した木簡があったのかもよくわからない
木簡ってか記紀以前に史書あったわけだし
そりゃ帝紀とか天皇記とかはあったろうけど、あれ作ったのも奈良よ?
物部氏と聖徳太子とか
7世紀の王都「阿波」でな。 @阿波
まあ九州北部の話ならすずり見つかってるし
官名が一大率や大倭といった漢系名称の時点で
漢字受容してなかったわけがないんだよね
>官名が一大率や大倭といった漢系名称
それは陳寿が書いた漢系名称だ。 わははははは @阿波
それは官名ちがう
>太宰府で見つかってる木簡も7世紀のものなのよな
?? 大宰府自体が8世紀なのだがw @阿波
>それより古い木簡がまだどこからも見つかってない
井の中の蛙大海を知らず。 @阿波
卑弥呼の時代はAD180年~240年頃
それ以前は男性たちが倭国大乱に陥っていた時代だ
後漢書によればその頃から邪馬台国は存在している
この倭国大乱の痕跡が畿内には無い
文字の出土状況
3~4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめはらいなどを
意識していないデタラメな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。
>6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
王都「阿波」でな。 @阿波
吉野の前線基地でしょ
誰でも直感で解ってる対馬壱岐だよ
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