まぁ畿内説は全くの捏造だからな
吉野ヶ里は復元するのに文献の邪馬台国に寄せて復元してるから騙される人多いんだよな
吉野ヶ里にもう地元に伝わる伝承や民話があるだろうに
絶対「何がクニだクンニしろ」をこすってるよなこれw
いちいち片仮名にする理由がない
ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう
発掘の結果無関係って判明したやろ
クナ国は、古事記の熊襲国の可能性が高い。
日向国、大隅国の場所だ。
薩摩もおそらく入りそうだが諸説ある。
畿内説は中国史書とも記紀とも全く整合しない霊感商法詐欺です
畿内説信じてる奴って
邪馬台国は大和朝廷のことであって欲しい
天皇家は紀元前からの歴史を誇る世界最古の王朝であって欲しい
という願望に引きずられて現実が見えなくなってる。
九州説信じている奴って
大和朝廷は九州から東征した邪馬台国であって欲しい
天皇家は卑弥呼の子孫であって欲しい
という願望に引きずられて現実が見えなくなってる。
三世紀には片田舎だった畿内が4世紀にはいきなり巨大古墳を沢山作り出したり
鉄や国産の三角縁神獣鏡が多数ばらまかれるような先進地帯なった
発展の段階なしにいきなりそうなった理由としては
中国との交易が盛んだった北九州の文化圏が畿内に流れ込んだと考えるのが自然。
東遷説が最も合理的に遺跡や出土品を説明できるのが邪馬台国九州説
ところが九州説が邪馬台国だと言っている地域にいたのは、倭奴國の漢委奴国王
東征した神武は、倭奴國の漢委奴国王の子孫
近畿説を信じているのは
ヤマイ国や倭の五王が
天皇家のご先祖様であって欲しい願望が
強すぎて現実が見えなくなっている。
いずれにしても天皇家の公式ルーツは南九州だし
九州説って寧ろ邪馬台国と大和朝廷の関係を否定してる側じゃね?
邪馬台国は当時栄えて、恐らくは大和に滅ぼされたクニ
北部九州の女王国から見て畿内は東の倭種の国でしかない
女王国と何らかの民間交流はあっただろうけど、鉄器文化すら浸透していなかった畿内と政治的に手を組むメリットは無い
纏向からは九州との交流の痕跡すら見つからんからね
纏向を邪馬台国とするなら、伊都国の位置から再考する必要がある
あれ?
国内で製鉄始まったのって5~6世紀じゃなかったっけか?
半島も倭国かもしれんが鉄なんて半島からの輸入頼りなのに九州の文化って言っちゃう?w
鉄器文化と言うのを知らないのか?
弥生時代末期の九州はリサイクル時代を迎えている
また富の原遺跡では日本刀と基礎でもある合わせ鍛えが始まっている
対して纒向では木製の道具しか出土していない
しかも農具ではなく土木用具ばかり
纒向古墳造営キャンプ場と言われる所以よ
昭和の頃は銅鐸文化圏と鉄剣文化圏ってのはあったなあ(遠い目)
たまたま似たような製法になったに過ぎない
日本刀は平安末から鎌倉時代になってから作刀されたもの
それまでのものは剣ではあってもカタナではない
玉鋼がそもそもまだ作られてないし
混一疆理歴代国都之図見ればいい
中国の勘違いがわかる
昭和時代の霊感商法かよw
相当ジジイだなw
ほれ
混一疆理歴代国都之図
赤い点が中国から見た邪馬台国の位置でいいのか
時代が違いすぎるだろ低能w
原図作ったのはモンゴル帝国だぞ?w
それでも位置おかしいから邪馬台国で決定だよ
陳寿が参考にしたであろう、後漢や魏の時代に様々な人が編纂を試みた、たくさんある後漢書
それを、新たに整理統合した范曄の「後漢書」では
倭は韓の東南、大海の中にある。
国はみな王を称し、代々受け継いでいる。
その大倭王は邪馬台国に居る。
その地はおおむね会稽、東冶の東にある。
と書かれている
唐(618年 – 907年)の第2代皇帝「太宗」の勅命を奉じて編纂された隋書でも
昔は、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた
と書かれている
そんじゃ、帯方郡から会稽、東冶の東に行くにはこうだろうと、陳寿が
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
とした
結局、『魏志』(倭人伝を含む)を編纂した陳寿も
邪馬台国がどこにあるかなんて知らなくて
当時、邪馬台国があると言われていた「会稽、東冶の東」に行くためのルートを書いただけなんだよ
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
が無いと
当時、邪馬台国があると言われていた「会稽、東冶の東」には、朝鮮半島からたどりつけない
クンニしろオラァー?
邪馬台国九州説が畿内信者から嫌われるのは
天皇家の歴史が126代2600年ではなく
117代?1700年くらいになるからなんだろうな
でもまともな理性があれば日本書紀の古代の記録が嘘なのは認めざるを得ない
神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳
考安天皇は考昭天皇が80歳の時の子供
考霊天皇は考安天皇が86歳の時の子供
考元天皇は考霊天皇が70歳の時の子供
では、まともな理性があれは『魏志倭人伝』の
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
が嘘なのもわかるはずだな
まともな知性があれば
不弥国から投馬国へは水行20日
投馬国から邪馬台国へは水行10日陸行1ヶ月という表記がおかしいと分かる
全行程12000里と示した上で不弥国まではキチンと何里か記録しているのに
最後の2か国だけ距離の単位を里ではなく日数にしてる。
こんな報告書は普通書かない。
狗邪韓国まで7000里、狗邪韓国から倭人の地域になり周旋(巡り歩いて)5000里で邪馬台国
合わせて12000里
と書いているにも関わらず最後の1300里だけ水行何日陸行何日なんて書く分けない
まともな理性があれば分かるよなw
そゆこと
57年 九州の倭奴国(筑紫城)が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り、「漢委奴国王」になってから
150年以上も、使者や商人が往き来して、
どこになにがあるか、すべて知ってる九州には
邪馬台国なんて国は無く、卑弥呼なんて女王も聞いたことが無かったから
九州から、さらに南に水行20日
そこからさらに南に水行10日、陸行1月の
「会稽、東冶の東の海上にある」と思ったんだよ
スレタイでエデンの檻を思い出すよな
ちなみに邪馬台国熊野平野説だと吉野ヶ里が投馬国のエリア内になる。
軍事行動なら一日に45里
皇帝がゆっくり巡幸するなら30里が
一日あたりの移動距離の目安。
急行とか帥行とかいくつか種類があったが
細かいのは忘れた。
九州説者は、なぜ
後漢書や隋書に「会稽、東冶の東にある」と書かれ
魏志倭人伝でも
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
と書かれたのか理解していない
57年 九州の倭奴国(筑紫城)が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り、「漢委奴国王」になってから
150年以上も往き来して、
どこになにがあるか、すべて知ってる九州には
邪馬台国なんて国は無かったから
九州から、さらに南に水行20日
そこからさらに南に水行10日、陸行1月の
「会稽、東冶の東の海上にある」と思ったんだよ
それは報告書の単位を途中で変える理由にはならないよw
写本を作る時に
魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は大和朝廷のことらしい
大和朝廷は奈良にあるが魏志倭人伝の記述だと九州にあると書いてある
じゃあ『正しい情報にアップデートしておこう』ということになって
最後の1300里を消して水行何日陸行何日という違う単位にすり替えて辻褄を合わせた。
そんなところだろう。
報告書?
誰が誰に対して報告した報告書?
陳寿が三国志(魏志倭人伝)を書く際になんの文献も読まず、参考にせずに書いたとでも思うのか?
邪馬台国絡みの記事は明らかに邪馬台国と魏がやり取りした際の報告書や文献を参考に書いているに決まってる。
「隋書」のように皇帝から勅命を奉じて編纂しているわけではなく
個人的に「三国志」を書いている西晋のしたっぱ役人の陳寿が
邪馬台国と魏がやり取りした公文書である報告書や文献を、どうして読むことが出来るんだよアホ(笑)
陳寿は初め学識の高い譙周に師事し儒学と史学を修め、蜀漢に仕えた。
その後の経歴には諸説があるが、衛将軍諸葛瞻の主簿、宮中文庫の管理者である東観秘書郎をつとめた。
宮中文庫の管理者だってさw
蜀漢滅亡後、王崇・寿良・李密・李驤・杜烈(杜軫の弟)と共に都に入った。
6人は益州・梁州を代表する俊才とされた。
暫く仕官できなかったが、同門でかつての同僚の羅憲によって推挙され、西晋に仕えた。
佐著作郎(7品官)に始まり著作郎をつとめ、杜預・張華の推挙により治書侍御史・兼中書侍郎・領著作郎と官を進めた。
また益州の地方史である『益部耆旧伝』・『益部耆旧雑記』や、蜀漢の諸葛亮の文書集『諸葛亮集』を編纂し、
張華・杜預・荀勗に高く評価された。この他、やはり高く評価されたという『古国志』を著した。
晋による三国統一がなされた後、『三国志』を完成させた。
『華陽国志』では、張華と荀勗が、陳寿は過去の歴史家である班固や司馬遷にもまさるという評価を行ったとしている
司馬遷にも勝るだってさw
やっぱり、邪馬台国と魏との間の公文書なんか読める立場にねーじゃん(笑)
宮中文庫の管理官なら読み放題だろう
司馬遷にも勝るという評価は5ちゃんの名無しよりは信用出来る。
どこの宮中文庫の管理官だったの?(笑)
陳寿の生涯はある程度晋書陳寿伝に書かれている
書庫の管理なんかやってない
参考までに後漢書での倭国の紹介文
倭在韓東南大海中 依山㠀為居 凡百餘國
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ百余国。
武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。
その大倭王は邪馬台国に居る
(今の名[邪馬台]はおそらくヤマイ[邪摩惟]のなまりである)。
なお、魏志倭人伝には邪馬壹(ヤマイ)と記載されている
山国川周辺だろうか。
ここが怪しいhttps://i.imgur.com/rj3Np4j.jpeg
筑後付近の旧郡が、
三潴(ミズマ)郡、
上妻(カミツマ)郡
下妻(シモツマ)郡など。
投馬(ツマ)国と読む、という説がある。
むしろ、日数や単位は変換せずに
そのまま聞いた通りを書いた説に一票。
単位は、地域や支配者で変わるものだからね。
まあ単純に、『魏志倭人伝』が書かれた前からずっと
邪馬台国は會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていたから
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
が無いと
會稽の東、儋耳に近いとこまでたどり着かないものね
それだと12000里という数字が出せなくなるよ
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