陳寿が勝手に
帯方郡から邪馬台国までは12000里くらいかなぁ?
帯方郡から狗邪韓国まで7000里くらいでぇ
そこから邪馬台国まで周旋5000里くらいかなぁ
なんて想像で書くわけがないw
ちゃんとそれを裏付ける先行の文献なり邪馬台国に行った魏の役人の報告書なりを読んだ上で書いたのだろう。
後漢や魏の時代に様々な人が編纂を試みた、たくさんある後漢書を個人的に集めて、新たに整理統合した范曄の「後漢書」では
倭は韓の東南、大海の中にある。
国はみな王を称し、代々受け継いでいる。
その大倭王は邪馬台国に居る。
その地はおおむね会稽、東冶の東にある。
と書かれているから
個人的に資料を集めた陳寿も「邪馬台国は会稽、東冶の東にある」という資料は見てるはずだよ
で
後漢や魏の時代に誰かが書いた「邪馬台国は会稽、東冶の東にある」と書かれた後漢書を前提にして
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
そこから九州を出て
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
としたのさ
後漢書は、正式名称は後漢書東夷列伝倭条といい、宋の役人だった范曄(はんよう) により、432年に成立しました。
後漢書の滅亡(220年)から200年以上経ってから成立しており、
後漢のあとの時代を記述している三国志の成立が280年頃ですから、三国志より150年ほど遅れて成立したことになります。
つまり、 後漢書を書いた范曄 は、三国志を書いた陳寿のはるか後輩ということになります。
それまでにあった七、八種類の後漢書をまとめて、史記や三国志呉書の記述も取り入れ、独自の考えで書き改めたと言われてます。
つまり、范曄の解釈がかなり入っているとみなすべきであり、留意しなくてはいけません。
『後漢書』(呉の謝承)
『後漢記』(呉の薛瑩)
『続漢書』(西晋の司馬彪)
『後漢書』(西晋の華嶠、『漢後書』とも)
『後漢書』(東晋の謝沈)
『後漢南記』(晋の張瑩、『漢南紀』とも)
『後漢書』(東晋の袁山松)
を代表とする、それまでにあったたくさんの後漢書に
「邪馬台国は会稽、東冶の東にある」と書かれた後漢書があり
当時の認識も「邪馬台国は会稽、東冶の東にある」だったのに
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
までで
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
が無かったら
張華と荀勗が、陳寿は過去の歴史家である班固や司馬遷にもまさるという評価なんかしなかっただろうね
後漢や魏の時代に誰かが書いた「邪馬台国は会稽、東冶の東にある」と書かれた後漢書があり
当時の認識も「邪馬台国は会稽、東冶の東にある」だったのに
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
までで
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
が無かったら
張華と荀勗が、陳寿は過去の歴史家である班固や司馬遷にもまさるという評価なんかしなかっただろうね
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、—東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国—–(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
2023/3/30
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/
このスレを読んでいる人に豆知識
東治と東冶
邪馬台国論争において昔から争われている論点として、「会稽東治(かいけいとうち)」と「会稽東冶(かいけいとうや)」のどちらが正しいかということがあります。
これは、中国から見て邪馬台国がどのあたりにあると考えられていたかということに関連しています。
それが、『三国志』(「魏志倭人伝」)と『後漢書』で異なっているのです。
https://ameblo.jp/yamatai-nihongi/entry-12420214101.html
いんや
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
九州から出て
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
だから
『三国志』(「魏志倭人伝」)も『後漢書』も
会稽、東冶の東です
つまり邪馬台国は九州にあった
ということになるんだがそれでいいんだ?
www
糖質には理解できないか(笑)
陳寿は、「そんじゃ、帯方郡から会稽、東冶の東に行くにはこうだろう」と、
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
結局、『魏志』(倭人伝を含む)を編纂した陳寿も
邪馬台国がどこにあるかなんて知らなくて
当時、邪馬台国があると言われていた「会稽、東冶の東」に行くためのルートを書いただけなんだよ
だから里数は参考文献無ければ出せないだろってw
馬鹿には分からないか?
畿内派ってみんなお前みたいな馬鹿なの?
文献?
船乗りや商人に
帯方郡から邪馬台国にはどういくか?と聞くと
行ったことがねーからわかんねーってなるけれど
んじゃ
帯方郡から会稽、東冶の東に行くにはどういくか?
と聞けば
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
じゃねーか?と答えるさ
伊都国までは風景、風俗、感想を描写してるから確実に行ってる
てか、客は伊都国に滞在するとも書いてるしな
伊都国は江戸時代で言う長崎の出島
結局
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
で、短里だなんだと
邪馬台国がどこにあるかなんて議論しても無駄なんだわ
邪馬台国への行き方じゃなく
会稽、東冶の東への行き方だからね
短里なんて使ってない
水路は千里刻み、陸路は百里刻みなんだからな
伊都国まで行って、ここから南にあると言ってるんだから、答えは自明だろ
>短里なんて使ってない
「參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
これは、倭国(阿波)の範囲が約400~500㎞という意味だ。
勿論、短里だ。 @阿波
>短里なんて使ってない
勿論、短里だ。
「又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
「又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參」
侏儒国=神津島(女王国「阿波」から直線距離 約400km 四千余里 ∴一里=100m
裸国=三宅島(またその神津島から東南)
黒歯国=御藤島
其南とは、女王国「阿波」付近からの黒潮大蛇行による南への流れによるものだろう。
論理的に侏儒国・裸国・黒歯国を比定できるのは「阿波」だけ。
トンデモ畿内や九州では、まったく説明できない。 @阿波
それって伊都国で滞在した梯儁?ら一行が女王国から来た使者に「どうやってきたの?」って聞いたら「1月歩いてその後舟で10日かかった」って返答して来ただけっしょ?
方位とかは自分達が今迄南下してきたもんだから更に南にあるに違いないと推測して書いたんだと思うよ
当時の倭人なんて歩くにせよ舟で移動するにせよランドマークとなる目印を頼りに来ているだろうし方角を聞くだけ無駄
その会稽も句呉や越との関係性を印象付ける為の記述だから、実際の位置なんかもう気にもしてないだろうね
っていうかそのレスには東治ではなく東冶の根拠無いなw
単にあなたの思い込みを繰り返しコピペしてるだけ。
おいおい、そんなに文字にこだわるなら
↓海を渡る1000余里 対海國 は対馬とは違うし
↓海を渡る1000余里 一大国 は一支国じゃ無い
よね?
謎のエリア空振り記念邪馬台国祭り。
『三国志』
計其道里當在会稽東治之東
(女王国〈邪馬台国〉までの)道里を計ると、まさに会稽東治の東にある。
『後漢書』
其地大較在会稽東冶之東
その地(邪馬台国)はだいたい会稽東冶の東にある。
「治」と「冶」。サンズイとニスイ、点一つしか違いはないのですが、そこから想定される場所は大きく違います。
根拠の詳細は省きますが、「会稽東治」だと「会稽の東部地域の治所」と解釈し、
現在の江蘇省蘇州市辺りとなります。
一方、「会稽東冶」だと「会稽郡東冶県」という解釈で、福建省福州市辺りとなります。
両者は、南北で約580キロメートルも離れています
その東が日本列島のどのあたりになるのかをみると、会稽東治の場合だと鹿児島県鹿屋市付近に、
会稽東冶の場合だと沖縄県那覇市付近にたどり着きます
唐(618年 – 907年)の第2代皇帝「太宗」の勅命を奉じて編纂された隋書でも
昔は、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた
と書かれています
そろそろ九州は諦めよ?
鉄器、中国産の鏡、鉄の矢じり、絹、
全ての出土品が邪馬台国は九州にあったと示している
むしろ畿内説の根拠が知りたいわ
畿内説による情報操作の事例
『出土品の一つ、祭祀(さいし)用と考えられるモモの種の年代が、卑弥呼の時代と重なるとした論文は、
邪馬台国畿内説を補強するとして新聞各紙を飾った。』
しかし桃の種の発見場所は柵列の下に位置する建物とは別の遺構だった
建物と桃は同時期のものでは無いと判明した
女王国から先の、以下の国から逆算しろよ
↓女王国の東へ千余里 倭種の国→対馬
↓その南の女王国から四千余里 侏儒国→北九州
↓その東南の船行一 年 裸国・黒歯国→四国、関西
魏志倭人伝にせよ後漢書東夷伝にせよ重要なのは邪馬台国の位置などではなく今の韓国南部(狗邪韓國)が倭国の領域だと明記されている歴史的事実
ほんとそれな
半島南部の倭
中国人の解釈
つまり投馬国は半島南部、邪馬台国は北部九州ということです
公孫氏が帯方郡を攻めた時に馬韓軍以外にも倭軍とも戦闘になっててその後倭人が公孫氏に朝貢まがいの事してるから狗邪韓國はもっと大きかったと思うよ
それこそ帯方郡まで勢力圏あったと思う
卑弥呼なんて土着豪族の公孫氏が滅ぼされて中央政府から帯方郡に役人が派遣された時に「え?何こいつら?」って大事になっただけ
倭国側としたら密貿易してた公孫氏時代と同じで単に帯方郡に朝貢しにいっただけの話
んで、どの船乗りや商人に
帯方郡から会稽、東冶の東に行くにはどういくか?
と聞いても、ほぼ全員が
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
じゃねーか?
と答えるので
邪馬台国はおおむね会稽、東冶の東にある
會稽の東にあり、儋耳に近いと言われている
なら
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
で良いだろうって編纂したのさ
仮に邪馬台国が九州じゃなかったとしても
第二候補は畿内じゃなく四国だろうな。
魏志倭人伝に書かれている習俗を読む限り畿内よりは四国の方がまだ辻褄が合う
北九州の風俗じゃね?
使者は伊都国までしか行ってないんだし北九州の倭人の風俗であって倭人共通の風俗ですらない
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王
并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 荅謝詔恩
「正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉の梯儁等を派遣し、
梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、倭王に授けた。
並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。
倭王は使に因って上表し、詔の有難さに感謝の意を表した。」
>倭王は使に因って上表し、詔の有難さに感謝の意を表した。
使者は倭王に会ってる。
少なくともこの時は邪馬台国までちゃんと行ってるだろう。
何しろ金印を渡す一大イベントだからな。
邪馬台国まで行かないわけがない。
それって伊都国にいた女王の代理じゃね?
郡使往來常所駐 ((帯方)郡の使者が往来し、常駐する場所である。)
って明言されてるのに会えるわけないじゃねえの
流石にそれは失礼すぎるだろう
なにが失礼なの?
現在の感覚で話してない?
外交官特権も何もない倭国の勢力圏に入った使者なんて立場滅茶苦茶弱いよ?
習俗の記述はそもそも日本じゃ無理がある
同じく倭人の住んでいた海南島辺りの習俗をそのまま持ってきたのではないか
卑弥呼がいた頃は温暖期らしい
前1世紀中頃~ 寒期と暖期を繰り返す不安定な気候となる。
2世紀末期~ 温暖期(卑弥呼が王位に立った時期)
3世紀~ 古墳時代への過渡期であるこの時期に再び冷涼な気候に移った。
海岸線がかなり内陸に食い込んでいた頃だから
暖かかったんだろう。
延々と自分の思い込みを書き続けるだけの畿内説
三国志が描かれた頃は東冶は会稽郡じゃ無いけどな
会稽東治は上海だね
一日あたり帥行30里を採用すると
投馬国まで20日=600里
邪馬台国まで10日+30日=1200里に換算できる。
連合政権で女をトップに共立する邪馬台国、片や中央集権で原則男子世襲のヤマト政権
クニの形が別モノ
◆魏志倭人伝には「伊都国の一大率が女王国の北の国々を監視している」と記されている
↓これを見てどちらが正解か考えてみよう
●畿内説の場合
●九州説の場合
九州はないな。
無論、畿内にもない
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