次は何から逃げるんだ?
5ちゃん以外で言えよ度胸なし
やらかして大惨事にしたったな
無縁仏
墓の維持管理を普段担ってないくせに、キレイごとを言って盆暮に顔を出すだけの奴の方が、よっぽど無責任な偽善者でありガキ。
盆暮れだけでも来てくれるのはマシだよ
全く行かないのは霊園とか管理者からすれば
この墓どうすんだ?ちゃんと後始末するのか?って不安だらけ
清々するのは他人事に思ってるおまえだからw
そりゃ霊園や管理者がちゃんと管理しろよ、って思う
ぼったくってんだから
納骨堂はちゃんと管理して読経まで上げてくれるぞ
普段掃除だの水やりを任せてる地元の親戚に、礼金位弾んでからでかいものを言え。
典型的な上京トンキンの幼児的発言でしかないのよ。
わざわざ物を拵えてお遊戯しないと申し訳ない気がしてる連中が哀れだ
進学就職婚姻、きっかけは何であれ。
親兄弟と離れ、地元を後にするのに、一生モノの覚悟はしなかったのか?
これが見納め、くらいの。
それが無いハンパさだから都会でも上手くいかないし、中途半端なノスタルジアにとらわれる。
俺から見たら大人になり切れてないよ。成長できてない。
今日の朝はレス番70まで埋め立てられてたもんな
5chは話題性の低いスレだけ生かしてtalkのほうがレスの付きがいいように見せかけてた
対立工作やってこっちもがんばり始めたんだなあ
といったら話題の都合上、語弊がありまくるがw
何しに行ってるかって論点はあるんですよ
模範解答は「祈り」なんだろうけどね。或いは「死者との対話」ですよ。
で、問題は何に祈ってるかってことで、墓地の本丸(?)である
遺骨じゃないんですよ。たぶん。
ホネに語り掛けるって普通は考慮外じゃないんですかね。
たとえばね、墓地はあれど遺骨がない死者っているじゃないですか。
代表的なのが戦死者だったり水難者だったり客死者だったりさ。
大昔の死者だとそもそも墓碑銘に名があるだけ、ってケースもあるからね。
じゃあ何に祈るかと言えば威風堂々たる墓石なんですよ。
墓石を経由して大いなる何かに祈ってるわけですよね。
あの世の魂へのモノローグ(or答えのないダイアローグ)というのが
墓参りではないのかな。まあ信仰行事なので多分に属人的なものですが。
(つづく)
草むしりしろ
帰ったらボタモチも冷や汁もいっぱい準備しといて―。
帰りしは野菜やコメをどっさり車に積んどいて―。
一言で来るな、デカい面がしたければ離職して帰郷しやがれ。
お前が空にしてる実家と田畑をきちんとしてみろ。
母に管理費訊いたら年4400円で来年分まで5年分振り込んであったわ予期してたんだろうな
今日も一人墓地整備してくれてる人いた
で、そういう墓石、”モノ”ですね。
これを媒介にした死者へのメッセージ伝送こそが墓参りなら
それは墓でなくてもいいんですね。
墓でなくてもいいんだけど、それは何かの重み、
それも宗教的な重みが必要なんですよね。
あの、特に前近代とかそこまでいかなくても戦前とか
先祖供養意識は今よりはるかに強かったと思うけど
交通事情その他でそんな軽々にいけないことってあるじゃないすか
そのとき、ご自宅で先祖を供養し邂逅できる宗教的呪物(っていうのかな?)、
それが「仏壇」とか「位牌」って”モノ”なんじゃないかな。
あ、仏教の場合はね。
(またつづく)
子供いないくせに「子供は天使!」と育児の理想論を唱えてるヤカラと似てる。
未だに睡眠が1~1時間半のブツ切れの日多いよ父頻尿でそのくらいの周期だった時期長かったせいで
帯状疱疹3回なった、母は1回
だけど生きてるうちは絶対に許さない
問題は被介護者なの
毎日されることも経験しただろ?
人間ってね、何者かに祈りをささげるのはよくやるけど
これ興味深いもんでね、何にもないものには叩頭できないんですよ
できないってことはないかw しづらいんですよね。
だから寺院でも神社なんかでもあって参拝するわけですよ
「拝殿」なんて言葉が象徴的だけどさ。祈るための場所がある。
本来、八百万の神や仏法(ダルマ)はこの世界に遍在しているはずだけどさ
で、その境内堂宇のなかには何があるかと言えば御神体があるわけですね。
仏像なり神鏡なり偶像のイコンがあるわけですね。拝む対象である。
往々にしてその拝む真の対象は賽銭箱の手前からでは見えなかったりしますが🙈
で、人が何かを拝むのに”モノ”が必要だという特性が極めて象徴的に描写されたのが
聖帝安倍陛下が奈良にて横死したのち、国会追悼演説で著名な野田さんが
現地現場で手を合わせた写真、あの話題になった「カラーコーン」だよね
あれがなんであんな場所に置かれてたかその委細はわからないけど
あれは再開発工事の都合上置かれた偶然ですか? ちょっとわからないけど
偶然にしては出来過ぎてるよね。またよりによって円錐形の形がね、
厭が応にも「墓標」という単語を連想させるに十分だったよね。
もちろんそれは墓ではないし、拝む対象物でもないけどね。
少なくとも有名な写真ではカラーコーンを拝んでいるように見える、そんなわけないけど。
(またまたつづく)
墓参りを意味づけるかは生きてる人次第
墓参りは行きたいんだけどな
精神的に限界以上まで追いつめられるの
こっちが狂うのが介護なんだよ
きれいごと言う奴の嘘はすぐわかる
お前は介護してない
ないしはめちゃクソラッキーで
被介護者がおとなしかっただけだ
先祖供養の供養壇と混じったり禅宗が位牌持ち込んだりなかなか面白い成り立ちだわ
まあ長々とスレの空気を読まずに長文失敬というところだが
何が言いたいかというと、墓参りは個人の信仰上の自由だから
任意にすればいいんだけど、神聖なる”モノ”を通じての死者との対話
或いは独語としての祈りこそが一般的な墓参りなのだから
そこは墓にむやみにこだわることもないんじゃないかなと思うけどね
もちろん放置して荒廃しているんじゃあまりに忍びないし
(ここに墓地(モノ)≒死者(タマシイ)というパラレルな構図がみられる)
隣地にメーワクかけてもいけないけどね、管理はしっかりしたらいいが。
そこはね、仏教徒ならご自宅で気軽に菩提が弔える仏壇とかね
祈りのメディアは色々あるんでねえですか、と個人的には思うけどさ
つまり今日びの無縁時代、そこまで墓にこだわるかねってお話。
まあウリは熱心にやるくちなんでバチアタリなことは言えないけど(卓袱台返しw
まあ、昭和以前の昔がそうであったように、
或いは今でも昔ながらの田舎がそうであるように(Bad old daysってねw)
墓参りや法事のような先祖崇拝儀礼を都度熱心にやっているように
周囲にしろしめないと地域社会から後ろ指さされて白眼視されるような
同調圧力でやむなく頻回やるようなところも、或いはあるかもしれないから、
そういう場合は少々気の毒にも思うけどね。また費えがかかるんだwww
熱中症の危険性のほうが高い
>>397
そう、ウリはキッズの時から思っているが春秋の彼岸と盆ね
この墓参りシーズンって妙にばらけてるよね
春(3月20日)~盆(8月15日)~秋(9月20日)って
盆と秋が近すぎるよねw まあ旧盆でやるなら1月分稼げる(?)が
逆に秋彼岸から春彼岸まで半年あるからねw 長いお別れwww
まあアツがナツい…じゃなかったw 夏が暑いのは昔からだが
今日びのように炎熱地獄も同然の世相になってくるとキツいよね。
墓参りは拝んでおわりならまだいいけど、墓地の事情によっては
草むしりとか墓石磨きをやる必要があるんで
そういう結構な負荷の労働をやるにはダメポな季節だよねえ
いわんやこの高齢化社会をや。
区切りをつけたり優しい気持ち精神安定的な物
特に必要ない人なら行かなくてもいいさ
今は老人が死んだ悲しみなんてないだろうね
ホッとすることはあっても
のび太のおばあちゃんも90過ぎまで生きて
アクティブ認知症になって人を噛みまくって(なぜか婆は噛む)
暴言吐きまくってたら
のび太の思い出も変わっただろう
このスレのシリーズの前の方で書いたんだけど
梅原龍三郎の名言じゃないけど
「生者は死者の為に煩わされるべからず」と
そういきたいところだよね、原則的には。
まさにルネサンスが神様絶対の世の中から
人間、人文精神の解放であるように
ただまあむろん葬儀であれ法事であれ墓参りであれ、
死者のためのようでいて無論それは生きる者のための儀礼だよね
だから生きているものが安心立命しているなら問題はないよね
なかなかそう悟れたものじゃないのが人間ってもんだけど。
あの「死者は二度死ぬ」って言葉があってさ
死者って死にたては頻回儀礼がいるわけですよ
仏教なら初七日法要とか四十九日とかね
あたかも赤ん坊がやたら手がかかるようにさ
一周忌、三周忌、七回忌とだんだんてがかからなくなる。
そして三十三回忌で弔い上げ、死者は「もう一度死ぬ」わけですね
これは死者がどうこうなったわけじゃなくて
遺された生きる者の心持ちの問題だよね
だから信教の自由じゃないけどさ
墓参りこそ、個人の心持ちであり世相に影響されるものと思うよ
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