弥生時代後期の博多からは播磨の土器が多数見つかっている
播磨は兵主の神さまや五色の玉を持つ石神さまの地だな
奈良時代に作られた播磨風土記には五色の玉を持つ石神の話があり、石神の胸には涙の跡があるという
胸の地で悲しい出来事が後に起きたのか?
ショボい静岡・登呂遺跡
そっ閉じ
弥生時代後期の近畿地方では、奈良の橿原や唐古・鍵遺跡、大阪の池上曽根遺跡から龍の絵画土器が見つかっている
奈良から降りてきた龍神が柏原の地で大和川の治水を行なった民話が河内に残り、石切神社の上之宮には黒い龍神が祀られていてトミの一族の伝承が伝わる
柏原の話は「松原の民話」にみつけたけど、どうも大和川つけかえ以降に
できた話って印象だな
吉野ヶ里遺跡って子供の頃教科書で読んだだけだけどそんなに広いの?
想像では学校のグラウンドぐらいの広さだと思ってたんだが
奈良の古墳みたいに国宝級ものでたらいいですね
もう何も無いから諦めろwww
そりゃ変わってる
この数十年でも変わってる
千年も経てば、今の言葉も通じなくなる
お前等専門家でも無いのにありきたりな知識で偉そうだなw
真実なんて誰も知らないのにw
皇族以外は
また荒神谷遺跡からは大量の北部九州型銅剣と共に、
福田型銅鐸の次の形式のI式菱環鈕式銅鐸が出土しており、
北部九州からの部族が出雲に進出した事が考古学的に判明しており、
コレが前2世紀の事になる。
荒神谷遺跡はあれはまた特別なような気もするんだよねえ
更に、荒神谷遺跡の近くから、
今度は初期の銅鐸が大量出土する、
加茂岩倉遺跡が発掘された。
銅鐸の時代編年と分布変遷を調べていくと、
大國主の国造りの変遷と見事に一致するため、
銅鐸が大國主の国造りと関連した道具であることが分かり、
ソレが荒神谷遺跡に次いで、
最も初期に大量生産された加茂岩倉遺跡が、
大國主の拠点であることも判明しており、
加茂岩倉遺跡に先立って銅鐸が生産された荒神谷遺跡が、
スサノウの遺跡である事を裏付ける事にもなって来る。
で、北部九州から最初に進出した人物と言えば、
スサノウであるので、
日本書紀に書かれた、
スサノウに治めるように言われた、
夜の食国または海原または天下が、
吉野ケ里周辺の事で、
そこを放棄して出雲荒神谷遺跡に進出したのが、
前2世紀の事であることが確定したのである。
また、出雲に進出後、ヤマタノオロチを退治して、
高天原の天照大御神に贈った剣が三種の神器の1つの天叢雲剣であり、
コレが銅剣であると言われており、
スサノウが作成したのが荒神谷遺跡の銅剣であるので、
荒神谷遺跡の銅剣と熱田神宮の天叢雲剣は同型銅剣の可能性が極めて高い。
またスサノウ伝説のある櫛田宮本宮が、
実際に佐賀の神埼町の吉野ケ里のすぐ近くにあり、
スサノウが吉野ケ里から出自した事を裏付けて居るのである。
佐賀県民はほぼ朝鮮混血。先天属性として屁理屈以外言語の使い道がない
想像以上に古代から人間の動きあるだろ
大陸は定住してない
また当初ナガスネヒコと共同で始めた国造りが、
突如中断し、大物主が現れ大和の大物主との共同の国造りに変化したと記紀に書かれているが、
コレが実際に、銅鐸の生産地が突如として大和に出現した事と一致し、
コレが外縁付紐2式銅鐸で、
時代が前1世紀中期~後1世紀中期となる。
何で🇭🇺ハンガリー語「入植地」
なの?
弥生さん
吉野狩りして
監獄生活
吉野ケ里にガチ関連の神社は
スサノウを祀る櫛田宮本宮である。
コレの創建が1940余年前とされており、
弥生後期の重要遺跡があるとすればこの辺りだろうか。
百済
↓竹島
↓都斯麻国
↓一支国
↓竹斯国
↓秦王国
↓十余国を経て
↓海岸(難波)
既にこの国の都に到達した
邪靡堆を都にする。
すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である
↑これは唐の皇帝「太宗」の命を受けた国の機関である編纂チームが、大和から唐に派遣された遣唐使や、唐から大和に派遣された文林郎の裴清を、詔勅の立案・起草を司った中書省に出頭させて聴取して書いたもので、ほぼ正確
↓これは個人的に三国志を書いている西晋の下っ端役人の陳寿が、休日に邪馬台国にいったことがある、または知り合いが邪馬台国に行ったと言う人を探して話を聞いて書いたもので、ほぼ「…知らんけど」レベル
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
百済
↓竹島
↓都斯麻国
↓一支国
↓竹斯国
↓秦王国
↓十余国を経て
↓海岸(難波)
既にこの国の都に到達した
邪靡堆を都にする。
すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である
↑これは唐の皇帝「太宗」の命を受けた国の機関である編纂チームが、大和から唐に派遣された遣唐使や、唐から大和に派遣された文林郎の裴清を、詔勅の立案・起草を司った中書省に出頭させて聴取して書いたもので、ほぼ正確
↓これは個人的に三国志を書いている西晋の下っ端役人の陳寿が、休日に邪馬台国にいったことがある、または知り合いが邪馬台国に行ったと言う人を探して、訪問したり飲食店で話を聞いて書いたもので、ほぼ「…知らんけど」レベル
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
全く関係ないかもだがスーサノーオ、神武天皇狭野サヌ
サヌとかサノが何かのキーワードかもな
サヌキは香川で旧石器時代の人々の拠点の一つなのも興味深い
五色台は旧石器時代からのサヌカイトの採集地だ
百済
↓竹島
↓都斯麻国
↓一支国
↓竹斯国
↓秦王国
↓十余国を経て
↓海岸(難波)
既にこの国の都に到達した
邪靡堆を都にする。
すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である
↑これは唐の皇帝「太宗」の命を受けた国の機関である編纂チームが、大和から唐に派遣された遣唐使や、唐から大和に派遣された文林郎の裴清を、詔勅の立案・起草を司った中書省に出頭させて聴取して書いたもので、ほぼ正確
↓これは個人的に三国志を書いている西晋の下っ端役人の陳寿が休日に、邪馬台国にいったことがある、または知り合いが邪馬台国に行ったと言う人を探して、訪問したり飲食店で話を聞いて書いたもので、ほぼ「…知らんけど」レベル
帯方郡ー韓国
↓海を渡る1000余里 対海國
↓海を渡る1000余里 一大国
↓海を渡る1000余里 末廬国
↓東南に500里 伊都国
↓東南に100里 奴国
↓東に100里 不弥国
↓南に水行20日 投馬国
↓南に水行10日、陸行1月
↓邪馬壱國
神武天皇がスサノオで欠史の本当の歴史は国作り神話として切り離された国作りの歴史じゃないかと個人的には考えている
結局平安時代に神話の時代のありように戻ったんじゃないかな
全く違います。
スサノウや大國主が出て来る国造りや国譲りのパートは、
遺跡や時代が具体的に特定できるモノで、
神武とは明確に区別する事が出来る。
トランプと麻雀ってなにか関係あんの?
神武の東征が仮にあったとして、
コレは、ニギハヤヒの天孫降臨の後に
落とし込んで行かないといけない訳だが、
ニギハヤヒの天孫降臨を示す大阪湾型銅戈の出土以降に、
大和に大規模な戦闘があったことを示す遺跡が無い。
実際には神武の東征は無かったと
するのが現状では正しい見方で、
日向から出自して、宇佐に至り、岡田宮から
吉備に滞在して、大和に進出していくルートは、
実際には日向の生目氏が狭穂彦王との
戦いに勝って宇佐の妻垣に陣を張り、
その息子の景行を吉備津彦の娘の
播磨稲日大郎姫と婚姻させて、
大和纒向に進出していったのを、
崇神系統と垂仁系統を一系男子の皇統として
創作するために作り出された
架空の物語と考えられるのである。
神武は、イザナギとイザナミとの子の、筑紫城の大綿津見神(豊玉彦)の子孫
邇芸速日命は、イザナギと正体不明の出雲の娘との子で筑紫城を追放された天照大神の部下
まあ敵対関係だよ
イザナギを父とする
大綿津見神(豊玉彦)と
天照大神と
月読と
建速須佐之男命は
兄弟だけど
大綿津見神(豊玉彦)の母はイザナミで、畿内に東征した神武はその子孫
天照大神と月読と建速須佐之男命の母はイザナミでは無く、畿内を守る邇芸速日命は、その部下
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